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  • 原爆を恐怖すること、「予感の想像 力」を再検討する原民喜における報告/想起の条件
  • 野上 元

1・はじめに:「予感の想像力」を再検討するという課題

原民喜は、1945年8月6日の広島での被爆体験を文学作品にし、「原爆 文学」というジャンルの扉を開いた作家のひとりである。1930年代より彼の作家 活動は始まっていたが、彼の作品で圧倒的に有名なのは、本稿で検討する『夏 の花』三部作、およびその後の作品である。被爆体験が、彼に作家としての二 度目の誕生を促したのだった。

多くの批評家によって評されているように、投下直後の壮絶な状況を伝 える原の文章は、独特のリズムと美しさを湛え、簡潔でありながら繊細である。 「簡潔さ」と「繊細さ」とはなかなか両立できるものではないはずだ。また、物 語は淡々と情景を伝えるばかりであり、感情描写は極めて少ない。三部作の第 一作「夏の花」にも「愚劣なものに対する、やり切れない憤り」1 という表現が見 られるが、「私」の感情がむき出しになるのは、逆にここくらいで、この表れの唐 突さが逆に、その物語全体の底流に「憤り」が隠れていることに気づかせてくれ る。

ところで、「原爆文学」とは奇妙なジャンル名である。兵器の名前が、文学 のジャンル名として冠せられている。どのようなときに、そうしたことが可能にな るのだろうか? まずこれを考えてみる必要があるだろう。

「機関銃文学」はありえないが、「塹壕文学」は、ある(・あった)。新しい 戦争の技術が人間の精神に傷痕を残し、それを文学がメディアとなって記録し たということだ。逆にいえば、戦場は常に最新の技術がもたらされる場であり、 そのたびに尊厳を損なわれ矮小化する人間のために、文学が必要とされてき [End Page 57] たのだった。人間性が晒された状況についての戦場からの報告として、文学が 機能するということである。

ただ原爆文学の場合、その機能はそうした「人間性の回復」だけではな かった。もちろん、原爆文学に求められたのが、まず戦場(空襲が人々の日常 生活の場を突如「戦場」にした)からの報告であり、書き手の心に繰り返し鮮烈 によみがえってくる情景の描写であったという点は、塹壕文学と変わるところが ない。

だが、原爆文学では、さらに、未来を想像する力も求められているところが 違う。つまり、原爆文学は、忘れようにも付きまとってくる過去の記憶でなく、そ れが逆に未来に向かって投射されるような想像力、すなわち「予感」によって条 件付けられている。それを大江健三郎は「予感の想像力」と名付け、冷戦時代 に生きる私たちが共有しなければならない感性だとした2

全面核戦争の可能性があること、つまり、大陸間弾道ミサイルに載せられた 核兵器が私たちの日常生活を常に狙っていることにより、被爆の体験は過去の ものである一方で、引き起こしてはならない未来でもある。大江はそこに、現代 文学の可能性の一つとしての原爆文学の普遍性を見る。なかでも、大江は原民 喜の作品をその代表として絶賛している。

別の言い方をすれば、原爆文学はある種の情況報告として、均衡抑止理論、 いわゆる「恐怖の均衡」が作動するための基礎情報をもたらす。 というのも、そ もそもドクトリンとして機能する均衡抑止理論とは、お互いを何度も滅亡させる ことの出来る大量の核兵器を双方で保有しながら、それを一度も使うことなく 対峙し続けるという教義であり、そんな途方もないことが可能であるには、お 互いに無謀な先制攻撃を思いとどまらせることが必要なはずだが、そのために は、双方の保有する核兵器の量や質の(秘匿ではなく)呈示、そして報復の強 い意志の表示がその絶対条件となる。けれども何よりも、核兵器が炸裂すると 人間にどのような悲劇が起こるのかという予見を双方で共有していることこそ が、その最も重要な前提なのである。

均衡抑止理論の前提となるゲーム理論は、合理的推論に基づく、核戦争の 破滅に関する予見の共有を求める。さらにもう少し確実に言えば、共有されて いることを共有する必要が、ある。その土台として人間的な共感、「予感の想像 力」が必要だということだ。つまり理詰めで計算づくの予見を共有するために も、核爆発の威力に関する無味乾燥な実験データではなく、爆発の照射を浴び た人間の叫びや嘆きが記録され、その共感力を喚起する必要がある。核兵器 は、非常に言語的・言説的な兵器だといえよう3

更にいえば、そうした均衡抑止理論に基づく冷戦も、1989年で終わってしま った。改めて私たちは今、「予感の想像力」をどのように読み解くべきなのだろ [End Page 58] うか? 核兵器はどこに行った? 廃棄されていなければ、どこかにまだあ るはずなのだ。情況は、この世界を「東/西」 という均衡抑止理論のプレーヤ ーに分けるだけで良かった冷戦期よりもかなり複雑、あるいは乱雑になってい る。現在の視点からすれば、複雑になった分、「予感の想像力」ももう少し丁寧 に再構成しなければならない。

であれば、この小論の課題は次のようなものになる。すなわち、原爆文学 が孕んでいる「予感の想像力」について、原民喜の一連の作品を題材にしなが ら、冷戦後における再読解を試みること、である。そもそも「予感」とは、ある認 識の状態のことなのだとすれば、原のテクストに則して、体験者・観察者として の条件、他者とのコミュニケーションのありよう、表現の技法などをいっそう仔 細に見て行かなければならない。

2・テクスト執筆の順序問題

まず重要なのは、この「『夏の花』三部作」が書かれ、公表された順番であ る。代表作となった「夏の花」は、「三部作」のなかでも一番始めに書かれ、『三田 文学』の1947(昭和22)年6月号に掲載された。被爆直後から避難先に落ち着くま での数日間を中心に描き、三部作の核をなす作品である4

その次に発表された「廃墟から」(『三田文学』同年11月号に掲載)では、 避難先の生活や広島市街地への再訪が描かれる5。避難先に落ち着き、戦争が 終わったという放送を聞いたにも関わらず、被爆の後遺症で、毎日のように、周 りで人々が死んでゆく。そうしたなか、広島市街地への再訪は、悲劇に追いか けられるだけでなく、むしろ逆にこちらから出来事の核心に向かうことを意味す る。方向だけを見れば、主人公の「逆襲」だ。

そして、少し時間が空いて最後に書かれた「壊滅の序曲」(『近代文学』1949 (昭和24)年1月号に掲載)では、主人公の「正三」を中心に、原爆が投下され る直前数日の人々の日常が描かれる6。この物語は、「暑い日差しが、百日紅の 上の、静かな空に漲っていた。 …… 原子爆弾がこの街を訪れるまでには、ま だ四十時間あまりあった」7と締めくくられる。もちろん私たちはこの40時間後に 何があったかを知っているので、そこに描かれる平凡な日常生活の様子すべて が実にドラマティックなものであると受け取らざるをえない。

物語を時系列で並べてみよう。8月6日の直前を描く「序曲」であり、「夏の花」は出来事の核心、三部作のプロローグであ る。「廃墟から」は、「夏の花」の続編・後日談にあたる。

プロローグである「壊滅の序曲」が最後に公表されたことの意味は大きい。原 爆の投下を知らない人々の日常が描かれる「壊滅の序曲」は、たんに原爆投下と いう悲劇の「序曲」というよりも、核兵器の恐怖とともに日々を過ごす原爆以後の [End Page 59] 核時代・冷戦時代の人々の姿に重なるのだ。この作品が加えられたことで、三部 作は一気に普遍性を帯びる。大江健三郎が原民喜の一連の作品を「予感の想像 力」と名付けたゆえんである8

そう考えてみると、続編としての「廃墟から」もたんなる後日談にはみえな くなってくる。安全な場所に避難したのちにも、また、再び訪れた広島中心市街 地でも、まざまざとよみがえる記憶がある。それは論理的な整合性を持つもの ではなく、何処か感覚の不調と関連のあるものである。

どうかすると、私の耳は何でもない人声に脅かされることがあった。牛小屋 の方で、誰かが頓狂な喚きを発している、と、すぐその喚き声があの夜河原 で号泣している断末魔の声を聯想させた。腸はらわたを絞るような声と、頓 狂な冗談の声は、まるで紙一重のところにあるようであった9

すでに安全圏に脱出しているにもかかわらず、たとえ全く違った音であって も、全てが「あの夜」に結びつくという。大量に浴びた放射線によって、安全圏 であっても死者が出続けている。こうした感覚・認知の混乱のなかでの「想起」の作用を繰り返し描くのが、「廃墟から」である。これらの三部作はセットとなっ て、広島の悲劇を経て過ごす核時代の人々に共有されてゆく。

つまり「三部作」は、被爆直後の爆心地付近で何が起こったのかをいち早 く<報告>した「夏の花」を中心に据えながら、<想起>の重要性を浮かび 上がらせた「廃墟から」、そしてこの二つの作品の存在を前提に、日常生活のな かで<予感>を浮かび上がらせる「壊滅の序曲」で構成される。つまり、<報 告>と<想起>と<予感>を含み、まとめて核時代の日常と恐怖との均衡 に関わる「予感の想像力」なのである。

この三者の関係はどうなっているだろうか。もう少し詳しく検討してみよう。まとめて「予感の想像力」 と名付けてしまうとなると、その三者のあいだにある 微妙な関係性を詳しく見る機会が失われてしまう。冷戦が終わった現在を手が かりにした、「予感の想像力」の再検証である。

まず、「夏の花」の物語は、8月4日、妻の墓参りに行くという話から始まっ ている。1944年の9月に原の妻が死去し、1945年8月15日は、その初盆だった。

死者が精霊となってこの世に再来するという「お盆」の季節である例年8 月中旬は、日本文化において、死者との繋がりを強める特別な時期である。そう したことを前提にして、特に第二次世界大戦後の日本社会は毎年、8月6日の広 島被爆、9日の長崎被爆、そして15日の「終戦記念日」までの時期を、戦争の死 者との繋がりを意識しながら過ごしてきた。

しかしながら、この小説冒頭における「私」の墓参りは、広島への原爆投下 の数日前に行われ、当然のことながら、原爆投下やその後の敗戦、そしてその [End Page 60] 記念行事化と関係がない。また、日に日に悪化する当時の戦局は、軍人・民間 人を問わず、いっそう数多くの死者を生み出していたはずだが、それにも「私」は特に強い関心を払っていない。物語の冒頭で示されているのは、たった一 人、死んだ妻に向けられた愛着である。

妻の墓参りのなごりである「線香の匂」がポケットにしみこみ、それが数日を 掛けて薄れてゆく。これがこの物語の書き出しである。そして遂に原子爆弾の 悲劇が幕を開けるのだ。

妻の墓に手向けられた「黄色の小瓣の可憐な野趣を帯び」10た「夏の花」が、この作品のタイトルとなっている。原爆の悲劇に対して、あまりにささやかな存 在であるが、「私」は原爆投下という戦争の悲劇に対し、妻の死をめぐる情感と しての「夏の花」を対置している。

実際には、原爆に関する表現活動を好ましくないものとした占領期のGHQ による出版検閲に配慮して、「原子爆弾」という当初のタイトルを撤回してこの タイトル(「夏の花」)が付けられたという。だが、むしろそれによって、再来する 死者を迎え、死者を想起する日本の盛夏の形象と結びつけられることが可能に なった。

その「可憐なる野趣」は、この作品が人々に愛されるゆえんであったが、<予感>や<報告>にとって、それは何を意味したか。それは、一定の親類関 係・人間関係に囲まれながら、孤独な状態にいる「私」の姿である。被爆のその 瞬間まで、「私」にとっての死者は唯一人、妻だけだったはずだった。逆に言え ば、それまで孤独だった観察者は、原子爆弾の被爆によって表現の機会を得、 語りかける報告相手を見つけるのである。<報告>の必要が、彼を孤独から 救ったのだった。

一行空けられた後、被爆の当日からの様子が書き出される。

3・「報告」を可能にした目撃者としての条件

実は炸裂の瞬間、「私」は厠のなかにいて、原子爆弾の光を見ていない。 彼がどのような意味で「目撃者」なのかについて、丁寧に見ておく必要がある(も ちろん、目撃者でないといっているわけではない)。

漸く這い出てより、周囲の様子が一変したことを知る。炸裂の瞬間に厠のな かで受けた衝撃によって怪我をし、血を流していたことは文章のなかで書かれ ている。だがその一方、厠のなかにいたために熱線を浴びず、彼は火傷を負っ ていない。火傷を全く負わなかったことで、火傷によって変わり果てた人々の 姿を冷静に観察することができたわけである。

直接に言ってしまえば、痛覚から自由で、かつ「人間」の姿を保っていたこと は、彼に、観察者・報告者として必要な余裕を与えていた。 [End Page 61]

このことを書き残さなければならない、 と、私は心に呟いた。けれども、その 時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知ってはいなかったのである11

「書き残されなければならない」ということは、例えば同じように原爆を生 き延びた作家である大田洋子も書いている。ほかにも、文学者やジャーナリス ト、一般庶民も含めて、体験した出来事を人々に伝える能力や手段を持つ人 々は、この人類史的な惨禍を前にして、同様のことを考えたはずだ。ただ彼らと 違い、「空襲の真相を殆ど知ってはいなかった」と書くところが原民喜である。 知らない(と告白する)ことが、報告者として不利にはならないというのである。

実はこの「夏の花」は、読者たちにとって、読み応えのあるスリリングな「ミス テリー」の構成にもなっている。当初、爆心地よりやや離れたところにいたため に、当初「私」は、できごとの核心部分を見ていない。「夏の花」 という物語は、 そうした「私」に対し、その被害の実相が徐々に表れてくる、 という構成になっ ている。

戦後社会において、被爆を体験した数多くの一般庶民が、原爆の報告者・証 言者となったために、今でこそ我々は、爆心地周辺において何が起こったかと いうことをよく知っているし、「爆心地と同心円/半径何キロメートル」「閃光と 轟音(ピカドン)」「火傷・ケロイド(溶けた皮膚)」「脱毛・吐血/原爆症」など、 原爆の表象をめぐる形象のセットを持っているが、「夏の花」の公表当時にお いて、それらが読者にじゅうぶんに共有されているわけではなかった。

「私」=原民喜が、爆心地附近におらず、爆発の瞬間も厠にいて比較的 無傷で、逆にそのため「それ」をよく見ていない(=何が起こったか正確に分か っていない)ことが、物語のなかで、読者とともに、徐々に原爆被爆の真実が明 らかになる、 というミステリーの構成を可能にしているのである。

ただやはり、これがただ事ではないことを「私」は知っていたので、作家 である原は、一時避難先になった東照宮で野宿中にいち早くメモを書き始め る。それは途中まで書かれ、以後は広島西方の八幡村の兄の家に落ち着いた 後に書かれたという。

爆心地付近からの避難民は、この東照宮方面にも次々とやってきて、な かには人間と思えない姿をさらす者もいて、それは広島中心地の惨状を想像さ せる。人々はそれぞれに自分の悲惨な状況や逃げてきた経緯やその苦しみを 訴え、それがある種の情報交換になり、原爆の被爆の多元的な実相を構成し始 める。が、まだ「私」自身が核心部分をその眼で見たわけではない。その一時避 難先で原は二泊している。

そして兄が荷馬車を用意してそこに戻ってくる。爆心地から見て北東の練 兵場・東照宮の脇に避難していた「私」たちは、広島西方の八幡村へと避難して [End Page 62]


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「広島市域関連地図」(✭が原の家、✷が爆 心地、⬅は馬車の経路)」 Minear ed. ,p14をも とに作成。

行くことになった。そのことによって、馬車は爆心地付近の広島目抜き通りを北 から南に通ることになり(もちろん当時、精確な爆心地は判明していない)、つ いに「私」は、原子爆弾の投下による悲劇の「中心部分」を目撃することになる。

馬車はそれから国泰寺の方へ出、住吉橋を越して己斐の方へ出たので、私 は殆ど目抜きの焼跡を一覧することが出来た。ギラギラと炎天の下に横わ っている銀色の虚無のひろがりの中に、路があり、川があり、橋があった。そ して、赤むけの膨れ上った屍体がところどころに配置されていた。これは精 密巧緻な方法で実現された新地獄に違いなく、ここではすべて人間的なも のは抹殺され、たとえば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的な ものに置換えられているのであった。苦悶の一瞬足掻あがいて硬直したらし い肢体は一種の妖しいリズムを含んでいる。電線の乱れ落ちた線や、おび ただしい破片で、虚無の中に痙攣的の図案が感じられる。だが、さっと転覆 して焼けてしまったらしい電車や、巨大な胴を投出して転倒している馬を見 ると、どうも、超現実派の画の世界ではないかと思えるのである。国泰寺の 大きな楠も根こそぎ転覆していたし、墓石も散っていた。外郭だけ残ってい [End Page 63] る浅野図書館は屍体収容所となっていた。路はまだ処々で煙り、死臭に満 ちている。川を越すたびに、橋が墜ちていないのを意外に思った12

原民喜による描写は、ここで極めて映像的となる。馬車は、ベトナム戦争映 画におけるヘリコプターのように、風景を映し出す重要な小道具となったので はないか。ヘリコプターは、垂直上昇によって一気に視界を開き、一望できるよ うになった戦場の風景は、視覚の緊張を解くとともに、安全な世界への脱出も 意味し、若い兵士にその内面の語りを促す。

一方、ここではヘリコプターのような上昇はなかったが、原子爆弾は一部の ビルを除いて建物を全てなぎ倒してしまったので、視界は遠方の山脈まで開け ている。そして廃墟のなか、馬車は、人間の歩速でもなく駆け足でもないスピー ドでゆっくりと進む。自らの足で歩いておらず、普段身に着いているスピードで もないことで、視覚だけが五感の統合から浮き上がり、空間との統合を失った 認識は、「私」を特権的な観察者にしていった。

それも極まり、突然、文章に破断がもちこまれる。そして「超現実」的な情景 を描くために、片仮名による文章が突然挿入されたのである。

この辺の印象は、どうも片仮名で描きなぐる方が応ふさわしいようだ。それ で次に、そんな一節を挿入しておく。

ギラギラノ破片ヤ灰白色ノ燃エガラガヒロビロトシタ パノラマノヨウニアカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズムスベテアッタコトカ アリエタコトナノカパット剥ギトッテシマッタ アトノセカイテンプクシタ電車ノワキノ馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハブスブストケムル電線ノニオイ13

現代日本語において、片仮名(カタカナ)は、外来語や擬音、電信電報や様々 な公文書の表現において使われる。電信電報に使われるので、カタカナには「急 報」の意味合いがしばしば含まれる。そして同じ表音文字(仮名)であっても、漢 字の崩し字に由来を持っているがゆえに柔らかな見た目を持つ平仮名(ひらが な)に比べ、漢字の一部分をそのまま取り出した片仮名は、元となる漢字(中国 文化由来の文字)の鋭角的な外見を残している。

だから、カタカナを使っているこの部分は、爆心地付近についての報告 が、漢字と平仮名による通常の表現の範囲を越えてしまったこと、非日常性・非 [End Page 64] 現実性を抱え込まなければならなくなったということを表現している。散文に突 如、詩文が挿入されたのだ。

破断はこれだけでない。「破片」や「燃え殻」が散在することで、焼け跡の 「パノラマ」が作りあげられていた、という3行目まではよく分かる。「赤く焼け 爛れた」「人間の死体」の「奇妙なリズム」も、先に引用した「苦悶の一瞬足掻 あがいて硬直したらしい肢体は一種の妖しいリズムを含んでいる」 という部分 を片仮名の詩文に「翻訳」したものだろう。最後の3行も、先の部分「さっと転覆 して焼けてしまったらしい電車や、巨大な胴を投出して転倒している馬を見る と、 どうも、超現実派の画の世界ではないか」 という部分に対応を見いだすこと はできる。だが、この3行が「超現実」なのは、「馬の胴の膨らみ方」が「ブスブス と煙る電線の匂い」であるところで14、視覚と嗅覚の混同が表現されているとこ ろである。視覚的に表現されているのが、「胴の膨らみ」ではなく、「胴の膨らみ 方」であることにも、もちろん意味があるはずだろう。

ただ、被爆地広島の爆心地近くの描写であるこの部分はむしろ例外であ る。物語は、依然として、簡潔で繊細な文章を維持する。自分の感情が文章の なかで表明されることはない。逆にこのクライマックスでは全くそうではなく、五 感や文章の乱れを表現することを通じて、原爆被害の超現実性を報告しようと したのであった。

そして馬車は「超現実」を抜け、目的地である八幡村に向かう。

倒壊の跡のはてしなくつづく路を馬車は進んで行った。郊外に出ても崩れて いる家屋が並んでいたが、草津をすぎると漸くあたりも青々として災禍の色 から解放されていた。そして青田の上をすいすいと蜻蛉の群が飛んでゆく のが目に沁みた。それから八幡村までの長い単調な道があった。八幡村へ 着いたのは、日もとっぷり暮れた頃であった15

風景の変化は、ここでも映像的に示されている。馬車のスピードが変わって いないのであれば、情景描写の密度を薄くするのにつれ、安全への脱出を遂 行的に描くことができる。

もちろん、脱出に成功した先の八幡村でも、原爆の現実が追いかけてくる。 負傷者は回復せず死に至り、元気だった者も衰弱して行く。一方、先の一時避 難先と同じように、「私」たちと同じように生き延びた者が村に次々とたどり着 き、先にたどり着いた者たちとのあいだで交わされる会話によって、新しい情報 がもたらされ、原爆被害の全体像を作り上げてゆく。それは、「私」たちの見聞 した被爆の様子が、更に大きな全体の一部分であるということを示している。

人々は爆心地の精確な所在を知らないため、数々の報告は、同心円を編成 してゆくような想像力にはなっていない。米山リサを始めとして、数多くの論者 [End Page 65] にこれまでも繰り返し指摘されてきた、爆心地からの距離による被爆体験の序 列もまだない16。人々はただひたすらに、それぞれ、被爆の瞬間、何処にどのよ うな状態に居たかを報告し合い、広島に生じた現実の全体像と、その中での自 分の体験の位置づけをしようとしていた。そして原はここで、そうして交わされ る会話の観察者・報告者でもあるのであった。

以上みてきた「夏の花」に表れる原爆体験の「報告」のための条件、観察者 をめぐる情報環境についてもう一度まとめよう。まず被爆の瞬間、「私」は厠の なかにいる。そこから這い出て家々が倒壊したのを目撃する――つまり、でき ごとの「中心」から少し離れた場所に当初位置し、さらに、更にいったんはその 「中心」から離れる。一時避難先である練兵場で落ち着くが、そこで「中心」付 近から逃れてきた避難民が合流し、その人々の様子や報告から情報をえる。遂 に馬車が到着し、破壊の最も激しかった「中心」部を通り抜け、馬車で八幡村に 向かう。八幡村でも生存者の合流、情報の総合は続き、また、逃げ延びたが亡 くなっていく人たちを目撃する。だから「夏の花」は、報告しあう人々について の報告でもある。

もし馬車で向かう避難先の村が広島の東方であったら、 ということを考えざ るをえない。その場合、爆心地付近を通過しないのだから、一時避難先で原が いち早く書き始めたノートは、爆心地からやや外れ、ほぼ無傷だった人の体験 記になり、あるとしても一時避難地である東照宮や避難先である八幡村に逃げ て来た人々の体験の又聞きを中心にするものになっていただろう。

あるいは、もし原が厠にではなく、 しかももう少し爆心地近くにいたら、彼 に描写された「人間の死体」に彼自身がなっていただろう。厠で熱線を遮断し て火傷を免れ、避難に成功し、後続の生存者を観察し、そしてそののちに爆心 地を通過するという経験の順番が、「夏の花」の構成・描写を可能にしたのだっ た。それは彼一人のことではなかっただろうが、そうした条件にあった人々の なかに、才能のある作家、原民喜がいたのであった。

4・想起と予期をどう関係づけるか

とはいえ、「夏の花」三部作は、体験者による優れた現地報告ではあって も、<報告>だけの作品ではない。先述の通り、特に「廃墟から」は、<想起 >の作品である。そこでは、まず、戦争の終わり (8月15日)を挟んで、たどり着 いた八幡村での生活が描かれている。

ほぼ無傷であったこともあり、避難先では働き手として頼りにされているよ うだ。戦争も終わった(空襲がない!)。もちろん自身の不安や孤独感も相変わら ずあり、被災者の悲惨な状況は変わらないが、静かな景色を眺めながら「ふと、 [End Page 66] 私はあの原子爆弾の一撃からこの地上に新しく墜落して来た人間のような気持 がするのであった」17とさえいう。

そして、広島への「再訪」が描かれる。つまり、広島の混乱はまだ回復してい なかったが、被爆数日前においてちょうど一ヶ月前だったという妻の一周忌が、 遂に来たのである。広島駅に向かう汽車のなかから一時避難先だった東照宮 が見え始め、次のように思い出す。

饒津公園を過ぎて、東練兵場の焼野が見え、小高いところに東照宮の石の 階段が、何かぞっとする悪夢の断片のように閃いて見えた。つぎつぎに死ん でゆく夥しい負傷者の中にまじって、私はあの境内で野宿したのだった。あ の、まっ黒の記憶は向うに見える石段にまざまざと刻みつけられてあるよう だ18

広島駅に近づいて行きながら、汽車はゆっくりと速度を落としていったはず だ。始めは、広島の惨状を初めて眼にして驚く他の客を観察する余裕があった が、再びここで視覚が突出し、「東照宮の石段」がその周囲の風景のなかから 強烈に浮かび上がる。そしてその「閃き」のなかで記憶が蘇ってくる。

廃墟の広がりの彼方によく見える山脈(中国山地)の雄大さが、必死で生き 抜こうとする人間の小さな営みと対比される。交通機関の混乱により、なかなか 目的地(妻の墓)に到達できないが、それもあって崩壊した家を再訪することも できた。「私はぼんやりと家の跡に佇み、あの時逃げて行った方角を考えてみ た」19。むき出しになっている鉄管から漏れ出ている水を見て、被爆の直後に這 い出て、そこで顔の血を洗ったことを思い出したという。

この、鉄管の水で顔を洗ったことは、「夏の花」の重要な覚え書きになっ たという 「原爆被災時のノート」(被災直後に執筆)には書かれていない。おそ らく、この再訪がそれを可能にしたのだ。つまり、この再訪は、たんにトラウマ的 な体験のフラッシュバックをもたらしたというだけでなく、むしろところどころ欠 損していた記憶の想起やその整理・再構築をもたらすものであった。そして「廃 墟から」で描かれる時期の原民喜が、ちょうど「夏の花」の執筆に取り組んでい たのだとすれば、この墓参りは、「夏の花」のための取材旅行・追加調査でもあ ったといえる。

このあたりから先は、文学研究の正統において検証されるべきものだろ う。ただ、ここで<想起>は、トラウマ的な体験を表すものとしてだけ起こるも のなのではなく、報告や創作のための手段となっていることは指摘しておきた い。つまり、広島中心地から郊外にいったんのがれたため、1か月後の「廃墟」を 新鮮な眼で改めて観察できる条件を得ているのだ。これもまた、原民喜を特権 [End Page 67] 的な観察者・報告者にしている。三部作のうち「廃墟から」は、<想起>による <報告>、<想起>の<報告>を行い、「予感の想像力」を再帰的なもの にする、重要な一部分である。

さらにもう一つだけいっておきたいことがある。原子爆弾の投下は、大量の 行方不明者を出しているが、「広島では誰かが絶えず、今でも人を探し出そうと しているのでした」20と「廃墟から」の最後の一文で書く原は、再訪した広島の なかでたった一人、「人を探し出そうと」する必要が全くない人間だった。原に とってのその「人」はすでに一年前に死んでいるからだ。「墓参り」という彼の広 島再訪の目的自体は明確であり、他の広島訪問者のように、多くの死体、顔の 判別の難しい重傷者のなかに、妻や友人、肉親を探す必要は全くなかった。そ の意味では、彼の<想起>もまた、孤独のなかにあったといえるだろう。だが、変わり果てた姿の妻を探す必要からは自由だったといえるのである。

そして少し間が空いて公表された<予感>の作品、三部作の最後の作 品である「壊滅の序曲」において、原は、自分を表すのに「私」ではなく、「正三」 を使い始める。登場人物も増え、この作品はある程度小説的に構成されてい る。未来に原爆投下を控えた人々がなす日常を、その前々日まで描いている。

ただ、冒頭に出てくる名も明かされない人物の姿が異様である。粉雪の 静けさのなか、「もっとも痛ましい週末の日の姿が閃いた」「彼はそのことを手 紙に誌[しる]して、その街に棲んでいる友人に送った。そうして、そこの街を立 ち去り、遠方へと旅立った」21

この人物の名は書かれない。そしてその後は出てこない。ただ、手紙を受 け取った「友人」は、「正三」=「私」=原民喜である。

いつのまにか彼は友人の手紙にある戦慄について考えめぐらしていた。 想像を絶した地獄変、しかも、それは一瞬にして捲き起こるようにおもえ た。 … (略) … どうかすると、その街が何ごともなく無疵のまま残されるこ と、――そんな虫のいい、愚かしいことも、やはり考え浮かぶのであった22

さすがにこの部分はフィクションであろう。だが、これが事実であるかどう かはあまり重要ではない。じっさいに予感したから<予感>の文学が生まれ たわけではない。前々日までを描くことで浮かび上がってくるもの、それが< 予感>の文学であったはずだ。その狙いを一層明確にするためにも、このよう にややフィクショナルな冒頭を挿入することも必要だと考えたのかもしれない。

原爆投下を知らない広島の人々が、その日常で想定しているのは、あく まで通常の 「空襲」である。「疎開」(都市からの避難)をいつ、 どうやるかがそ の中心にある。原爆が投下されるまで、広島には一度も本格的な空襲がなかっ [End Page 68] た。これまで無傷の広島だが、ほかの都市と同じようなかたちで、いつ空襲され るのかが人々の話題にのぼる。逆に、なぜ空襲されなかったのかという問い、 あるいは、このまま空襲されないのではないかという希望などを抱いている。 も ちろん、そうした希望的観測がすべて虚しいものになったからこそ、この「壊滅 の序曲」は「予感の想像力」の作品だということである。

この物語の最後、「 … 原子爆弾がこの街を訪れるまでには、まだ四十時間 あまりあった」23という最後の一文の直前の場面では、「建物疎開」をめぐる騒動 が起こる。建物疎開とは、空襲にそなえ、火事による延焼を防ぐために建物の間 に空地を作るために、いくつかの建物をあらかじめ取り壊しておくということであ る。次兄の家がその対象に選ばれる。その期日は三日。「それをきいていると、清 二は三日後にとり壊される家の姿が胸につまり、今はもう絶体絶命の気持ちだっ た。「どうか神様、三日以内にこの広島が大空襲を受けますように」」24。祈りが通 じたのか、次兄の住宅の建物疎開はとりやめになった。申し立てて取り壊しを中 止にした長兄の妻は、「さあ、また警報が出るとうるさいから今のうちに帰りましょ う」25などといって帰って行く。登場人物たちはあくまでも未来を知らず、描かれる のは、戦争末期の日常なのである。もちろん、さらにその数日後には、次兄の住宅 だけでなく、広島中の建物という建物が瓦礫になるわけである … 。

こうした日常生活のなかの会話の数々はほぼ全て、たいした価値のな いもので、そのままでは、文学の素材になるようなものではない。だが、私たち は「このあと」に起こったことを知っている。それゆえ私たちは、こうした会話の 価値のなさを、原子爆弾というこの世の悲劇における文学的な味わいとして受 け止めるわけである。

とすれば、この作品は、原爆投下の直前を描くものとはいえ、単に<予感 >に慄いている原民喜を描くものなのではない。原が何らかの予言者であった ということではないのだ。そうではなく、原は、結果を知っている立場を読者と 共有することで、いわば「神」の視点を読者にも体験させているのである。それ は何を意味するのだろうか。

5・おわりに:原民喜を記憶すること

そうした原は、1951年に自殺する。自分の創作活動の行き詰まりや経済的 困窮、社会との齟齬に絶望して死ぬわけである。それを予告するかのように、三 部作ののちに発表された作品では、作品のなかに自分の死(への願望)を埋め 込むようになっていた。

もちろん、そうしたことをする作家、つまり自分の表現活動をその死によって 完成させるような作家が、原の他にもいないわけではない。原が特殊だとすれ [End Page 69] ば、戦争の時代が終わり、人々が「戦後」 という時間を生き始めた時代に、逆に 死を選んでいるということである。

更にいえば、妻が死んだ後、原は、「もし妻と死に別れたら、一年間だけ生き 残ろう。悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために」と考えていたというのである(「遙かな旅」1951年)。つまり「夏の花」の冒頭で描かれた墓参りは、その原稿 の「締め切り (deadline)」1ヶ月前に行われたのであった。その「締め切り」を目 前に控え、もし詩集の原稿が完成していなかったのであれば、原爆の惨劇によ って、むしろ原は自著の締め切りと自分の自死の決意から救われたことになる。

あるいは、観察者としての条件を考えれば、こう言ってもいいかもしれない。

詩集の締め切り間際にあったことで十分に高められていた文学的な感受性や 表現力が、原子爆弾被爆の情景に対する取材に行かされた、と。

また、別の作品では、「この眼で視た生々しい光景こそは死んでも描きとめ ておきたかった」(「死と愛と孤独」1949年)と書いている。もちろんこうした言 葉は、原子爆弾に際会した他の作家の表現でも見られるが、先述の「一年間だ け生き残ろう。」という言葉とセットにしたとき、その異様さが明確になる。

妻の死 + 一年間の自分の生 → 美しい詩集 (原爆以前) 大量の原爆死 → 原爆の報告 + 自分の死 (原爆以後)

二つの式を見比べれば、原がこの時期、自分の生死を媒介にして、表現活 動をしていたことが分かる。「自分の生」を「-自分の死」と変換し、さらに右辺 に移し、二式を足してみれば良い。彼の生死を媒介として(文字通り消失する 媒介者として)消去してしまえば、「妻の死」と「大量の原爆死」とが、「美しい詩 集」と「原爆の報告」とを生み出したということになるはずである。

妻の死 + 大量の原爆死 → 美しい詩集 + 原爆の報告

そして(当初の「締め切り」には遅れたが、ともあれ)原は自死するという誓 いを守った。だが、その死の引き替えとなるべき「美しい詩集」はどこにある か? 独立した詩集としては残っていない。あるとすれば原の原爆の報告のな かにあると考えざるをえないだろう。つまり、原爆の報告には、妻の死を表した 一種の「詩集」が埋め込まれていたということである。

そもそも<予感>とは、孤独で繊細な営為である。予感される内容が現実 的でなければないほど、それを予想できない人々にそれを報知することの価 値は高くなるはずだが、同時にその一方で、それがあまりに現実的でなけれ ば、人々に相手にされない可能性もある。孤独な人間にとって、その予感を表 [End Page 70] 明することは、他人を信頼するという、一つの賭けなのである。予感を神から与 えられたものとしたり、信頼できる弟子を作って共有したりしてゆくのも、予感と いう孤独をめぐる工夫の一つ一つであるだろう26

さらに、途方もない出来事が起こるという予感は、もちろんその当人を相当 な不安に陥れている。それゆえに、誰かに伝え、恐怖を分け合おうと願う。危機 の報知に成功すれば、人に賞賛されるかもしれない … 。だがしかし … 、とい うように、そうした孤独で繊細な営為である予感は、コミュニケーションの様々 な可能性とそれへの躊躇いにさらされている。

そうしたこともあり、三部作をはじめとする原民喜の作品は、本稿で見てきた ように、<予感>のみならず、<想起>の作用であっても、<報告>の作用 であっても、それぞれ関連付けられた、その慎重な重ね合わせのうえにある。ま た、<報告>をめぐる優位な条件が<予感>や<想起>を損なわないよう にすることにも細心の配慮がなされている。

繰り返すように、そもそも<予感>の<報告>は、伝える相手に対する信 頼が必要な「賭け」にも似た行為である。原民喜の場合、爆心地の近くで黒焦 げや火傷だらけになることなく、いったん放射能渦巻く危険地帯を離れ、さらな る安全地帯への脱出のため二日後に爆心地を通ることになり、その惨状に対す る冷静な観察の機会をえた。さらに、1か月後にはそこを再訪し、記憶の整理や 1か月の廃墟の変化を確認している。また、一時避難先や避難先では、逃れてき た人々から話を聞き、あるいはその人々の間の会話をかなり客観的に記すこと ができている。報告者として、これほどの条件を持った作家がいたであろうか。

これを可能にしたのは、ほぼすべて「妻の死」であった。被爆直前より、やが て巡りくる一周忌は人の生死に関する感受性を高め、被爆後の一周忌は広島 への再訪を促した。また、自分の目撃や人々のコミュニケーションによってこの 世の悲惨を知ることになったとしても、それをどこか他人ごとにとらえたのも、彼の人生にとって、「妻の死」を超えた悲劇はなかったがためであった。

描写対象を突き放したような文体が、原の作品における<報告><想起 ><予感>の力を高め、より多くの人々に愛読されるようになり、とくに、冷 戦時代の感受性(文学の可能性として)に敏感な大江健三郎に「予感の想像 力」と名付けられるに及んで、原の作品は、原爆文学の元祖にして正典の地位 におかれるようになった。だが、その中心には、三部作をまとめて「予感の想像 力」と大きくレッテルを張ることでは気付けない、大量死のなかの孤独によって 可能になった<報告><想起><予感>の繊細な相互作用があったので ある。 [End Page 71]

1. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』(講談社文芸文庫、1995年)、p19l16=Hara, Tamiki, Summer flowers, ed. and trans. by Richard H. Minear, Hiroshima : Three Witnesses, Princeton University Press, 1990, p52l27-28.

2. 大江健三郎「死者たち・終末のヴィジョンとわれら生き延びつづける者」(『同時代として の戦後』講談社、1993年、所収)

3. Jacques Derrida, "No Apocalypse, Not Now (Full Speed Ahead, Seven Missiles, Seven Missives)," Diacritics 14, no. 2 (Summer 1984): 20–31.

4. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』pp9-30=Hara, pp41-60

5. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』pp31-54=Hara, pp61-78

6. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』pp.55-103=Hara, pp79-113

7. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』pp103l10-11=Hara, p113l24-25

8. 大江はまた、1965年の講演(「原民喜を記念する」(『大江健三郎同時代論集2』岩波書 店、1980年)で、原民喜の「夏の花」を称して「終わっていない小説」とする。そのことにより、広 島の被爆によって開かれた現実が続いていることを想像させることが出来るという。

9. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』p37l.7-10=Hara, p65l27-29

10. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』p9l6=Hara, p45l8-9

11. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』p15l7-8=Hara, p49l14-15

12. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』p26l13-p27l9=Hara, p57l28-p58l14

13. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』p27l9-p28l3=Hara, p58l14-25.

14. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』p28l1-3=Hara, p58l23-25.ただし、英訳版は、このニ ュアンスを訳していない。

15. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』p28l4-7=Hara, p58l26-32

16. Lisa Yoneyama, Hiroshima Traces: Time, Space, and the Dialectics of Memory (Berkeley: University of California Press, 1999).

17. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』p33l9-10=Hara, p62l27-28

18. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』p44l3-6=Hara, p70l33-36

19. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』p45l2=Hara, p71l23-24

20. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』p54l6-7=Hara, p78l23-24

21. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』p55l9-10=Hara, p79l13-16

22. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』p56l8-13=Hara, p79l33-p80l7

23. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』p103l10-11=Hara, p113l24-25

24. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』p102l3-5=Hara, p112l35-p113l2

25. 原民喜『原民喜戦後全小説 上』p103l6=Hara, p113l18

26. 原の友人、丸岡明による『贋きりすと』(角川書店、1956年)は、原民喜をモデルにした小 説である。また、竹原陽子「イエスのような人――遠藤周作に残された原民喜の痕跡」(『三田 文学』87号、2006年)によれば、遠藤周作にとって、その年長の友人であった原民喜がそのキリ スト像を形づくっている可能性があるという。

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