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  • 唯一人帰る者のない世界神風特攻と大岡昇平
  • 森 茂起

1.序

日本の戦争体験を「トラウマと文学」の視角から捉えるとき、大岡昇平1 の仕事をその考察対象から外すことはできない。デヴィッド・スタールによれ ば、作家としてのすべての仕事が、「罪悪感に支配された正真正銘のサバイ バルに始まり、サバイバーのミッションの実り豊かな達成に終わる創作の長い 旅」2 である点で、大岡は突出した存在である。

本論の目的は、彼のミッションのなかで、特攻(special att ack)3 について大 岡が行った仕事を振り返ることである。『レイテ戦記』の中で特攻士について彼 は次のような言葉を記している。

想像を絶する精神的苦痛と同様を乗り越えて目標に達した人間が、われわ れの中にいたのである。これは当時の指導者の愚劣と腐敗とはなんの関係 もないことである。今日では全く消滅してしまった強い意志が、あの荒廃の 中から生れる余地があったことが、われわれの希望でなければならない4

この箇所だけ取り出してここに示すことに、私は強いためらいを覚える。一 つの理由は、反戦の精神を表明し続けた大岡にあって、特攻に対するこの「賛 辞」ともいえる表現が思想的な矛盾をきたしているように見えることにある5 。し かし、それ以上に大きな理由は、今現在の世界情勢の中で、第二次世界大戦の 終結から現在までの間に行われたおびただしい数の自殺攻撃を連想せずにこ の言葉を読むことが難しいからである。特に、1980年代から世界に広がり、9.11 同時多発テロで劇場化した自殺テロの数々についてはたしてこの言葉を私た ちは口にすることができるのだろうか。彼らの自殺攻撃を、「想像を絶する精神 [End Page 139] 的苦痛と同様を乗り越えて目標に達した」ものとして賞賛し、その「強い意志」に 「希望」を持つことが可能であろうか。

答えは、テロリストが属する集団内部にいるのでない限り、否定的であろう。それが不可能だとすれば、大岡の言葉からそのような連想を働かせるのは、私 の、あるいは同様の連想を働かせる読者があるとすればその読者の、読み誤り であろうか。あるいは、大岡自身に自殺攻撃に関する誤った判断があるのだろ うか。それとも、合法的な殺人である戦争行為における特攻士の勇気と犯罪行 為を行うテロリストの勇気の間には、「正義」の観点から根本的相違があるのだ ろうか。逆に、大岡が軍部の作戦の腐敗を指摘する中で航空士の勇気に光を 当てていることを考えると、犯罪的テロリズムのなかでも個人の勇気を称えうる ということだろうか。あるいは、その賞賛には、個々の事例に即して、邪悪な動 機のものから賞賛に値するものまでの倫理的スペクトラムに応じて与えられる べきという保留がつくのだろうか。

これらの問いに答えを与えることは容易ではない。戦争について生涯かけ て考え続け、基本的には日本の戦争行為を批判し続け、戦後の日本の良識を 代表した大岡だからこそ、私たちはそこから何かを学ぶ必要がある。1980年代 以降のテロリズム以前に書かれたこの文章を、その時代と大岡の作品群の文 脈の中に位置付け、なんらかの判断を行うこと、そしてできればその判断を今 日の状況まで視野に入れて検討すること、少なくともそうした判断と検討の準 備をすること、それが本論の目的である。日本の戦争体験の中で特異な位置を 占める特攻という現象に彼がどう向き合ったのかを検討する作業は、私たちが 日本の特攻だけでなく、今日頻発する自殺攻撃6 を理解するためにも意味があ るだろう。

大岡は、自身、一兵卒として太平洋戦争に参加したが、特攻に何らかの形で 直接かかわったことはない。また、特攻を主題にした著作を書いたこともない。しかし、戦争を扱った数多くの著書の中で、彼はたびたび特攻に言及し、先の 文が含まれる代表作『レイテ戦記』では、一つの章を費やしてレイテ戦におけ る特攻について記述している。特攻が彼にとって、一つの問題であり続けたこ とがそれらの著作から見える。

私は、大岡の特攻への言及に二つの視線を見出している。その第一は、「唯 一人帰る者のない世界」に足を踏み入れた特攻士の体験への視線である。こ れを彼は、自身が戦地で死を覚悟して一人山野をさまよった体験と並置する。第二は、『レイテ戦記』に結実する特攻作戦全体への視線であり、そこにはその 愚かさの認識と、先に見たような自己犠牲を果たした航空士への畏敬の念が伴 っている。 [End Page 140]

本論では、第一の視線をまず確認したのち、『レイテ戦記』で大岡が行った 仕事と、特攻の扱いの意義を検討する。そして最後に、両視線を総合しつつ、彼の仕事に照らして今日の自殺攻撃を理解することを試みる。なお筆者は、ス タールによる包括的な大岡研究7—英語で著された唯一のそれ—に深く共感し ている。必要に応じて言及するが、本論全体を通して氏の議論が参考になった ことを述べておきたい。

2.大岡の国際的評価

大岡は戦後派に属する作家である。ただし、作家としてのデビュー8 が遅 かったため、世代的には戦後派作家の中で最年長である。徴兵されフィリピン、ミンドロ島の戦地に赴いた経験をもとに書いた『捉まるまで』9 で1948年に作家 デビューし、1951年に発表した『野火』10 で読売文学賞を受賞した。

その後も作品を次々発表し、戦争、恋愛、歴史、自伝、評伝、犯罪、仏文 学関連と11 、著作家として彼が扱った主題は多岐にわたる。それらの著作群は 24巻にのぼる全集12 に収録されている。大岡の作品が同時代に与えた影響は 極めて大きく、批評家や研究者から最高度の評価を与えられてきた。作品の質 はもちろん、戦争体験に真伨に向き合い続けた彼の作品が内容的にも形式的 にも唯一無比のものであることが大岡の地位を特別なものとしている。

国際的評価に視点を移すと、『野火』が1957年に英訳され、国際的に最も よく読まれた大岡の小説となった。その後、『俘虜記』『花影』13 『武蔵野夫人』14 の三作が1990年代後半以降に立て続けに翻訳され、作品紹介が一段落したよ うに見える。 しかし、これら四作はいずれも初期作品であり、大岡を文壇スター への道へ導いた重要な作品であることは間違いないとしても、量的に見ても時 期の偏りから見ても、大岡の仕事全体を理解するには不十分である「第2の充 実期」15 あるいは「第3期、第4期」16 と呼ばれる時期は、国際的にほとんど知 られていない。特に、作家歴の一つの頂点を形作る『レイテ戦記』の翻訳がな いことが、彼の全体像を理解することへの障壁となっている。

大岡自身、自身の作品の国際的評価に関して言及したことがある。1972 年に、息子夫婦を訪ねてニューヨークを訪れた際に生まれた紀行記、『萌野』17 の中でのことである。

大岡は滞在中に、息子夫婦が世話になっている近隣の婦人シルヴィアに 誘われ、彼女が勤務する書店、 ゴーサム・ブックマートを訪れる18 。シルヴィアは、 『野火』がウィンドウの一番目立つところに展示されているのを見せるとともに、Rediscoveries19 と題する書籍を大岡に渡した。編者の批評眼によって選出 された百篇の「忘れられた本」の中に『野火』が紹介されていたのである。大岡 [End Page 141] は、諧謔を込めて「私は日本で唯一の『忘れられた』作家になる名誉を持つこと になった」 と書く。そして、この作品が「もともとアメリカの読者とジャポノロジス トには評判がよくない」と言いつつ、こう続ける。

私はこの二十年前の作品に幻影は持っていないつもりである。私のほかの 作品が西欧に翻訳されず、唯一の翻訳作品が忘れられているのには、それ 相応の理由がなければならない。

たしかにこの時点で『野火』以外の翻訳はまだ現れていなかった。 しかし この時大岡は、『レイテ戦記』を書き上げた充実感の中にあった。久々に訪問 したアメリカの地で、「忘れられた作家」 としての自らの位置を確認しつつ、彼は『野火』以降に自らがたどった作家生活を振り返ったであろう。『野火』につい ての幻想は持っていないと語る大岡は、むしろそれ以後に達成した自らの仕事 への自負を感じながら、戦友たちへの負債を一定程度返済したのちに自らに課 した新たな使命を意識していたのではないだろうか。

3.原体験:『捉まるまで』

俘虜生活を経て戦後帰還した大岡は、『捉まるまで』で作家デビューを 果たす。この作品で彼は、「捉まるまで」の体験を構成する一つ一つのプロセス を、詳細にたどっていく。特に、隊の移動からはぐれて単独行動に入ってから米 軍の俘虜となるまでの時間について、記憶に残る限りの出来事を、自身の体の 状況、感情、思考を含め記録していく。

大岡の戦場は、レイテ島のような激戦が発生しなかったミンドロ島であ り、日本兵の亡骸の目撃体験はあるものの20 、「シェルショック」や「戦争神経 症」を生み出す体験として数々描かれてきた凄惨な場面、身体的衝撃を伴う 爆撃、あるいは殺害体験などを大岡にもたらさなかった。では、彼が『捉まるま で』に記述する体験を構成するものは何か、 と問うとき、次の二つの主題を最も 重要なものとして取り出すことができる。

第一に、アメリカ兵を射てる位置にいて射たなかったことの倫理的意味 である。大岡がミンドロ島、ルタイ高原の叢林の端に横たわっていた時、草原を 近づくアメリカ兵に気づいた彼は、銃を構えて安全装置を外すが、射たないう ちにアメリカ兵は他方からの音に注意をそらして視界から去った。ここでなぜ射 たなかったのかを彼は自らに問いかけ、とりわけ徹底的に記憶のあらゆる細部 をたどり、記憶に残らない瞬間の検証も含め、プロセスを再現する。

第二は、単独行動に入ってから体験した死を前提とした時間の意味であ る。実際彼は、最後の移動に備えて三十発の銃弾を残して重い装備を捨てなが [End Page 142] ら、「私の生命はその三十発を射ち尽くすまではもたない21 」と感じていた。単 独行の中で水を求めてさまよったすえに力尽き、「遂に私が水を飲まずに死な ねばならぬことを納得した」22 結果、大岡は手榴弾による自死を試みる。死は、 それを受け入れただけでなく、意思したという意味で彼にとって現実のもので あった。彼が俘虜となり生還したのは、手榴弾の不発という偶然による。当時の 手榴弾の不発率を「6割」 と見積もる彼の言葉からすると、稀な幸運ではなか ったが、一旦死に身を委ねたことに変わりはない。米兵に発見され俘虜となっ たのは、自死が失敗に終わり堕ちた眠りの中でのことであった。自ら投降したの でも、暴力的にとらえられたのでもない。靴で蹴られて目覚めたとき彼はすでに 捉まっていた。

捉まった大岡は、米軍のベースまで歩かされたのち、ブララカオまでの道 を担架で運ばれた。空と視界を通り過ぎる木々の梢を見ながら得た感慨を、大 岡は次のように記す。

その美しい緑が担架が進むにつれて後へ後へと流れるのを見ながら、私は 初めて私が「助かった」こと、私の命がずっと不定の未来まで延ばされたこと を感じる余裕を持った。 と同時に、常に死を控えて生きて来たこれまでの生 活が、いかに奇怪なものであったかを思い当った。23

大岡は、自死に失敗しただけでなく、自らの意思で生きることを選んで投 降する瞬間、あるいは何らかの戦いの中で抵抗をあきらめる瞬間を経験しなか った。つまり、「常に死を控えて生きて来た」時間から、「命がずっと不定の未来 まで延ばされた」後の時間へ、何の意識的決断も経ないまま移ったのである。

後の大岡の作品には、言わば「生と死を選び取る意志」 と要約できるこの モチーフが繰り返し登場する。大岡自身の「分身」24 と見なされる田村がレイテ島 を彷徨する『野火』では、「発狂」という言わば生と死を選択する意思の喪失を主 人公に設定することと、大胆に「神」を持ち出すことで決断への問いを展開してい25 。初期の恋愛小説も例外ではない26 。最後に主人公が自死する『武蔵野夫人』 は、自死を決意して服薬しながら、一旦命を取り留めて生を望み、 しかし助からな 「事故」で命を失う女性を描いて、決断と非決断の合間を描いた27 。同じ く主人公が自死する『花影』では、「(自死の)準備はとっくにできていた」 と突然 明かし、三島由紀夫に「すぐれた技巧」 と言わせた28 。意思によって死を完結する 一つの形を描いたものとすれば、彼自身が果たせなかった死を描いたことになる いという29 、死の決意の瞬間は描かれない。さらに、 ミステリーあるいは「裁判小説」で ある『事件』30 では、殺人が行われる瞬間が、加害者の殺意によるのか死を求め る被害者の意志によるのか決定不可能という状況を設定する。さらに、ナイフで [End Page 143] 刺す瞬間の記憶が欠如している加害者に、米兵を打たないで終わるまでの重要 な瞬間の記憶が欠如する自身を投影している。『捉まるまで』は、幾重もの意味で 大岡の仕事の出発点であり、鋳型なのである。

4.再訪:『ミンドロ島ふたたび』

大岡の特攻士への言及を考えるとき、当然ながら、第二の主題が特攻 士と直接関係する。死を覚悟した単独行の中で彼は本来誰も知ることのないは ずの時間を過ごした。大岡はその体験を出撃してからの特攻士の体験に重ね るのである。両体験の対応が最も詳しく扱われている作品は、『ミンドロ島ふた たび』である

大岡は1958年に一度ミンドロ島再訪の可能性を考えたことがあった。遺 骨収集船がミンドロ島を訪問することをニュースで直前に知ったときである。 しかし、再訪はその機会には果たせず、1967年にようやく実現した。『レイテ戦 記』を書きはじめた彼が、取材を兼ねて戦跡慰問団に同行したときのことであ る。『ミンドロ島ふたたび』は、慰問団とのレイテ島訪問と、慰問団から別れた 後のミンドロ島訪問の体験を詳しくたどっていく。ただし、執筆は訪問直後では なく、『レイテ戦記』の進行とともに膨らんだ構想をもとに、『レイテ戦記』完成 後の1969年に一気に行われた。

ミンドロ島で俘虜となり、レイテ島に収容されたときが35歳、それから22年 の歳月が過ぎ、大岡は再訪時に57歳、執筆時に59歳になっていた31 。再訪から この作品の完成までの期間は、大岡が「捉まるまで」の時間を深く振り返る機会 であった。フィクションの形で体験を消化しようとした前述の諸作品と異なり、 事実への肉薄による振り返りである。

『ミンドロ島ふたたび』は、大岡が得意とする紀行文のスタイルを持ち、 訪問の経験を時系列で丹念に記述していく32 。そして、レイテ島に向かうためマ ニラを飛び立ち、シブヤン海に出たところで、大岡の筆がはじめて特攻に及ぶ。

十月二十四日この海で戦艦「武蔵」が沈んだ。多くの海陸特攻機が、レイテ 湾に碇泊する艦船に体当たりをするために飛んだコースである。

大岡は、「海は青い。島々は白い渚と、緑色の浅瀬を廻らしている」 と眼下に広がる風景を記述しながら、現在の飛行を特攻機に重ね、「特攻機を操縦 して行く若者も、この風景の中にいたが、恐らく島や渚など見ているひまはなか った」と続ける。大岡の視線は、今の自身から離れ、特攻士の視線に同化して いく。この視線の移行は、『レイテ戦記』でも行った歴史叙述の一つの方法であ る。作者が「他者に憑いた眼」を持つ、あるいは「他者の目を自分のなかに取り 入れ」33 ることで、小説家の想像力を動員して、兵士の目を通して戦いを記述す [End Page 144] る方法である。「四方の空の青から、いつ飛び出してくるかわからない敵機を 見張っていなければならない」 と航空士の体験をさらに追った大岡の視点は、 ここで突然もう一つの変質を辿る。

太陽を背にした黒い一点と認めた時ではもう遅いのだ。それはきみよりは 操縦がうまい、ずる賢い奴で、きみの眼の前で、予想のつかない動き方をす る。意外な早さで、近づいて来て、きみの機ときみの身体を穴だらけにして しまう。・・・きみの身体は銃弾に貫かれて、機が落ちて行くのか、意識が落 ちて行くのかわからないまま、きみは暗い死のなかへ落ちて行く。・・・

目標に達することなく堕ちた航空士だけではなく、目標に向かって攻撃を 果たした航空士にも大岡は語りかける。

翼を折られ、身体を射ち抜かれようとも、機を目標に当てるために、操縦桿 を握っていなければならないのだ。これはきみのほか誰も知る者のない世 界の出来事だ。

この箇所で大岡は、まるで操縦席の背後にいるかのように、特攻士に語り かける。『レイテ戦記』では用いない、直接的な呼びかけである。この呼びかけ により、特攻士の姿がさらに鮮明に蘇える。これは、大岡がこの箇所だけに用い る特殊な、おそらくは筆の進むままに生まれ出た表現であろう。機上で大岡が 見た幻影の表現かと思われるほどである。

この後、特攻士が出撃前に書いた遺書の存在に触れた上で、「一度機に 乗ってからのきみからは何も残っていない。きみと神様のほか知る者はいな い」という言葉で大岡の語りかけは終わる。

この呼びかけの後、大岡の記述は、自身の「捉まるまで」の体験に移る。米軍がミンドロ島に上陸したのを受けて山中に退避していたころ、「頭上にカタ カタと不景気なエンジンの音」を山中で聞き、「コウモリ爆撃」 といって兵士仲 間と馬鹿にした経験を彼は思い出す。それが無知からくる「自分で何もすること がない無力感から、ほかの者のすることにケチをつけて喜んでいた」兵士たち の悪弊であったことも付け加えながら。

そして、一人叢林に残されたことを記すと、突然、「私もまた唯一人帰る者 のない世界へ足を踏み入れていたのだった」(強調筆者)と、「死を控えて生き た」自らの体験を特攻士に重ねる。「その二四時間に、考え、見、したことは、誰 も知ることがないはず」であり、「唯一人帰る者のない世界」において特攻士の 体験と同質であった。

しかし彼我の差異も彼は認める。「特攻士の心と同じく、本来ならば語られ なかったはずの物語を、私は語ったのである」と。帰還してその体験を語ったこ [End Page 145] と、それが大岡を特攻士と分かつものである。語ることを可能にしたのは、「不 思議な偶然」でしかない。そして、大岡は次のように告白する。

以来私はその罰として、いつも死と共にいる。存在は常に私にとってすぐ意 味を失いがちである。目の前にある日常の物事と重なって、奇妙に荒涼とし た世界が、現前するのである … … 。

死を前提とした時間から帰還した体験、それも何の決断も経ないまま帰還 した体験は、彼に測りしれない「責務=負い目burden」を残した。今生きている ことに何の理由もなく、誰の意思も働いていないことが、意味の喪失をもたらす。対処不可能な圧倒的な体験という意味でそれは確かにトラウマであった34

『ミンドロ島ふたたび』はこのあとレイテ、ミンドロ両島の再訪体験に進 む。特にミンドロ島に降り立った大岡の体験は濃密である。細部は省略するが、多くの邦友が死に、大岡が彷徨し捉まったルタイ高原を再訪することはかなわ なかった。あきらめた彼は、20キロ離れた鋸山西北部のふもとから死んだ邦友 に叩頭する35 。大岡はこう語りかける。

神風特攻をわれわれはいやな産物だと思っていた。ところがあれはサン・ホ セ橋頭堡で、われわれから二〇キロしか離れていないところで、かなりやっ ていたのだ。敵さんだって、ひどい目に会っていた。神風に吹き飛ばされた、可哀そうな徴用船員もいた。

戦友に語りかける砕けた口調で、大岡は『レイテ戦記』で到達した重要な 認識に触れる。特攻士は、 ミンドロ島にも飛来し、戦果を挙げていた。レイテ島 への機上で彼が語りかけた特攻士への言葉は、『レイテ戦記』を書きあげるま での過程で得たその認識をふまえた言葉である。では、『レイテ戦記』における 特攻理解はいかなるものだろうか。次に『レイテ戦記』に話を進めよう。

5.『レイテ戦記』

いくつもの作品によって戦争体験に文学的表現を与えていった大岡の目 は、自身の体験を生み出した状況の全体に向かい、レイテ島上の戦いの全体を 描く 『レイテ戦記』を生み出した。

大岡の未訳作品のうちもっとも重要な作品はこの『レイテ戦記』であろう。読 後感を「圧倒」36 という言葉を用いるものが多いことに、この作品が読む者にも たらす作用がよく表われている。 しかしその一方で、この作品には、大岡の既訳 の諸作品と異なり、翻訳の可能性を低く見積もらざるをえない理由があるよう に見える。その理由を具体的に考えるために、まず一節を引用してみよう37[End Page 146]

二十一日、第一二連隊はタクロバン西南方三キロ山際の部落ウタブの攻 略に向った。途中いくつかの日本軍陣地から散発的な抵抗があり、沼湿地 が行軍を悩ませたが、部隊は夕方までに部落を占領した。これは十六師団 司令部の物資集積所で、米軍は多くの食料、車輌、機具のほか、情報資料を 入手した。

部隊は二十三日までにタクロバンの西方の丘陵地隊の前山に分散配 置された。 この方面からの日本軍の襲来に備えるためであった。

第五連隊はウタプ南方二キロのカイバアン部落とその後方丘陵攻撃 を受け持たされた。二十一日朝部落を通過する間は無事だったが山際にさ しかかると、およそ一個小隊の日本兵の頑固な抵抗に会った。

しばらく砲火を交えた後、意外にも日本軍陣地に白旗が挙がった。米 兵は重機を前進させておいてから、武器を捨てろと呶鳴った。二、三の小 銃、剣、飯盒が投げ出された。 しかしその次に弾が来て、五人の米兵が傷つ いた。前進した重機が射撃を開始し、一三人の日本兵を殺した。残りは山の 奥へ逃げた。

この箇所は作品全体の中で特別の意味を持つ箇所ではない。筆者が偶 然に委ねてページを開いたときに目に入った一節であり、900頁弱におよぶ記 述のほんの一例である。

大岡は、主部に入る前に、この作品で行う作業とその根拠を次のように述 べている。

私がこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく書くつもりである。七五ミリ野砲の砲声と三八銃の響きを再現 したいと思っている。それが戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思 っている。それが私に出来る唯一のことだからである。38

上記の引用箇所は、ここで作家自身が言う 「できるだけ詳しく書く」作業 の一例である。1944年10月21日に起こった一つの戦闘を記述するために、彼 は、可能な限りの日本軍、米軍両者の公式記録や生存者の証言にあたり、書き 手の立場から生じる粉飾を剥ぎ取り、「事実と判断」するものを定めていった。 彼がこの作品全体を書くのに要した膨大な資料の収集と検証の量が想像でき る。

しかし、大岡の意図は歴史家として戦いの記録を後世に残すことではな かった。「戦って死んだ者の霊を慰める唯一のもの」 と信じだからこそ彼はこの 膨大な作業に取り組んだのである。書くことが霊を慰めるというこの言明には、 「現に今生きている自分自身の霊を鎮めるこころみ」39 ではないかと疑問が挟 [End Page 147] まれたことがある。確かに大岡の記述には、そのような議論の余地がある。し かし、大岡自身が「戦って死んだものの霊を慰める」 と考えてこの作業に取り組 んだことは事実であり、その信念が膨大な作業の遂行を支えたことは間違いな い。大岡の目は、「死んだ者の霊」に向けられていた。

では「それが私に出来る唯一のこと」であることが、なぜ霊を慰める理由 となるのか。その根拠付けは論理的に自明なものではない。「だからである」と 論理的に根拠付けようとするが、論理よりむしろその背後にある情念がこの根 拠づけを支えているように見える。情念の発露に論理的な表現の装いを与える こと、これは大岡の一つのスタイルである40

その情念の在り処を先の例に見てみよう。そこに記される「前進した重機 が射撃を開始し、一三人の日本兵を殺した」ことは、レイテ島の戦いにおける 膨大な事実の一つである。多くの事実と並べると、ほとんど読み流してしまいそ うな一個の事実である。 しかし、詳細な資料の検討を経て事実と判断されて描 かれていることを意識した時、この一文が、その時その地で命を落とした13人 の日本兵をレイテ戦全体の中に位置付けていることに思い至る。大岡がこの作 業をしなければ、 どこかの資料にまぎれ、誰の目にも触れず、それが事実かどう かも検証されないままに埋もれていたはずの事実である。兵士が生きて死んだ 証を残すこと、それが大岡の意図であった。そのようなものの一人として死ぬは ずであったにもかかわらず、生きて名を残した大岡の罪責感がその行為を支え ている。つまり、生き残り得た幸運があってはじめて可能な帰らぬものの生と死 を位置づける行為である。それは、大岡が戦友の家族を訪ね歩き、死の状況を できるだけ詳しく伝えた行動を、直接知らないレイテ島上の兵士にまで拡張し たものである。『レイテ戦記』執筆の意図は確かにそこにあった。 とすれば、そ の執筆は、通常の作品執筆と異なり、書き込まれたすべての兵士の死の霊に向 けた一つのアクションであったことになる。「唯一のこと」 と限定しているように 見えるが、自身が生き残り、文士という 「唯一の」立場にあることが生み出す使 命感の大岡独特の屈折を経た表明と捉えると了解できるのではないか。

『レイテ戦記』執筆という仕事の意味は、通常の小説とは異なったところ にあった。「霊」に対して文士としての自身が唯一できることを果たす使命感 と、それを伝えるために用いる大岡の論理の間には、ある種のギャップがある。 しかし、生みだされた作品は、膨大な事実の力と、大岡のアクションの力によっ て、読者に「圧倒的な」作用を及ぼすものとなった。極めて冷静な緻密な検証作 業と、その全体を支える、理性では了解できないある種の信念あるいは情念、こ の両者がおそらく 『レイテ戦記』の圧倒的な印象を形成しているのである。

ただ、大岡が心血を注いで書いたこの作品が、国際的に読まれる可能性は 少ないと言わざるを得ない。上記の箇所だけからも推測されるように、『レイテ戦 [End Page 148] 記』の他言語への翻訳は、翻訳者に多大な労苦を強いる。また、まるで歴史家に よる研究書のようなこの書の翻訳は、おそらくは、現代の世界の日本文学の読者 層にアピールすることは難しく、商業的意味で実現が極めて困難であろう。

以上を前置きとして『レイテ戦記』における特攻の扱いに話を進める。大岡 は、レイテ戦の事実を集積し描いていく作業の一環で、特攻に一章を費やす41 。 『ミンドロ島ふたたび』では、自身の「死を控えて生きた」経験を特攻士に重ね た彼だが、『レイテ戦記』において大岡は自身の体験を重ねることはしない。彼 が焦点を当てるのは、むしろ、他の多くの死を覚悟した兵士や航空士と異なる、 特攻士の体験である。

彼らの体験を記述するにあたり、大岡はまず、最初の特攻を行った敷島 隊の指揮官、関大尉にこの作戦を伝えた玉井副長の回想を引用する。大岡は、 「関大尉の静かな決意を称揚するように、語られている」 と玉井の言葉を受け 止めた後、即座に「しかし私には、黙って俯向いていた五秒間に、大尉の心中 を去来した想念の方が重く感じられる」 と、特攻の任を与えられた関大尉の「心 中」に焦点を当てる。ここから約2頁を費やして大岡は、航空士たちの「心中」に 対する推定と、その評価を行う。大岡の論の順に辿ってみよう。「事実の記録」 に徹する頁が多い中にあって突出した印象を残す2頁である。

まず彼は、「むろんパイロットは常に死の覚悟が出来ていなければならな い」 と、死の覚悟が特攻士に固有のものではないことを確認する。また、戦闘の 過程でとっさに自爆が選択されることがあることを指摘する。 しかしその種の「避 けられぬ死をいさぎよく飾る」攻撃と特攻は質的に異なるとし、「生還の確率零と いう事態を自ら選ぶことを強いられる時、人は別の一線を越える」 と言う。その線 の向こうは「質的に違った世界」であって、「基地の兵舎で、特攻と決定してから 出撃までの幾日かの間、あるいは飛び立ってから、目標に達するまでの何時間か の間は、人間に最も残酷な生を強いる、 と私には思われる」 と。「事実と判断した もの」を「できるだけ詳しく」書くための抑制を捨て、「私には思われる」 と、「推測」 「想像」を書きとめることを彼はためらわない。

特攻作戦が特殊な体験を特攻士に強いることは、作戦を提案した側にも 意識されていた。筆者が引用したことのある、特攻兵器「桜花」の航空士募集を 提案する際の上官の言葉には、次のくだりがある。

過去に決死的作戦、決死隊があったにせよ、これらはうまくいけば生還でき るものであったが、今回の決戦兵器は生還の公算は絶無である。この点が 従来とまったく類を異にするものである。上命により実施することができな いゆえんでもある。42

その攻撃が「未だ嘗てない」犠牲を強いるものであるがゆえに、それは [End Page 149] 強いられてはならないという逆説がここに見える。それは原理的に志願されな ければならないものなのである。

このように細部に目を向けると、大岡が記述する特攻士の体験には、複 数の時間要素が含まれることがわかる。つまり、自ら選んで一線を越える決断 の瞬間、選んだ死を前にして過ごす出撃までの時間、飛び立ってから自爆する までの時間の三要素である。ここではこれら全体が対象とされているが、『ミン ドロ島ふたたび』では、飛び立ってからの時間を「唯一人帰る者のない世界」と して区別していたことを先に述べた。

彼はこの後、「神風特攻は敵も賞める行動である」 という視点を挿入する。 「米軍のパイロットの七割は、自分も同じ立場にあったら志願するといってい るそうである」 と「志願」の部分に焦点を当て、その決断を軍人に一般的な勇敢 や自己犠牲の範囲で理解するような言葉を加える。 しかし、「決意していること と、それを実行することの間には、また一線が存在するのである」 と再び特攻士 の固有性を前面に出す。

ここから数行、大岡は、特攻がたどった言わば腐敗の過程に言及する。特攻 は必ずしも美しい決断によって行われたばかりではなく、特に1945年3月末以降 の沖縄戦の段階では、志願という名を借りた強要があったり、故障と称して不 時着する例があったりした。そのころには、命を捧げることが祖国を救うと信じ ることができなくなっていた。特攻はもはや「戦略の仮面をかぶった面子の意 識」によるもので、「悠久の大義の美名の下に、若者に無益な死を強いたところ に、神風特攻の最も醜悪な部分がある」と当時の職業軍人を断じる。先の三要 素に照らして言えば、自己犠牲の志願、出撃から攻撃までの強い意志といった 特攻に固有性をもたらす要素のぞれぞれが崩れることで、「醜悪」なものになっ ていた。

特攻が「無益な死」を強いるものであり、「醜悪」であるという判断を加えた のち、大岡の筆は突然方向を変える。そして一部を冒頭に掲げた、次の箇所に 至る。

しかしこれらの障害にも拘らず、出撃数フィリピンで400以上、沖縄1,900以 上の中で、命中フィリピンで111、沖縄で133、ほかにほぼ同数の至近突入があ ったことは、われわれの誇りでなければならない。43

想像を絶する精神的苦痛と動揺を乗り越えて目標に達した人間が、われわ れの中にいたのである。これは当時の指導者の愚劣と腐敗とはなんの関係 もないことである。今日では全く消滅してしまった強い意志が、あの荒廃の 中から生れる余地があったことが、われわれの希望でなければならない。

[End Page 150]

この二つの段落は、詩の脚韻のように、二つの「でなければならない」で 閉じられ、一つのリズムを形成している。韻文の形式に収めるだけの情念が大 岡にあったことを示すのであろう。

この二段落を分割して別々の箇所に引用しているスタールは、第1のも のは「we can't help but be proud of」、第2のものは、「must be our hope for」 と訳し分けている44 。「名詞 + でなければならない」を直訳するとすれば、 後者のように「must be + object」 を選択するのが第一選択肢であろうが、おそ らくこの表現のある種の不自然さのためであろう、スタールは反復を避けてい る。あるいは、別の頁への引用のため、反復効果より、それぞれの意を伝えるこ とを重視した可能性もある。いずれにせよ、この翻訳では脚韻効果が失われて いるが、研究書への引用であればやむを得ないであろう。

実は、この「でなければならない」 という言葉遣いは、大岡が好んで用い るもので、彼の文体の一要素である。『レイテ戦記』でも他所に見いだすことは 難しくない。大岡の文体が、「欧文脈の翻訳体」45 であることはしばしば指摘さ れており、この「でなければならない」も、must beに相当する「翻訳体」の例と も言える。あるいは、文語の「にあらざるべからず」に相当するとみなすこともで きるだろう。いずれにせよ、その意味は明晰でありながら口語の生理に照らせ ばある種の違和感を読者に与える。

では、この「直訳調」あるいは「文語調」の表現を通常の現代日本語に置き 換えるとすれば、 どのような表現になるだろうか。推定に当たる「のはずである」 では明らかに弱い。この場合、話者の強い意志を示す義務や命令として受け取 り、それが「われわれの誇り」あるいは「われわれの希望」であることを大岡が 強く要請していると考えるのが適当である。その要請を自身を含めた市民に向 けたものと考えると、「であると考えるべきである」「と見なすべきである」 という 含意があるだろう。あるいは認識ではなく、「にすべきである」「と定めるべきで ある」 という行為に向けたものと取ることも可能である。「強い意志」が「全く消 滅してしまった」執筆当時の日本において、そう考えたり、そのように定めたりす ることを、自らと読者に向かって要請していることになる。

しかし、大岡はここで、自身や読者や、あるいは社会に向けて「考えるべき」 「見なすべき」「定めるべき」と直接要請することをせず、「でなければならな い」を用いる。「でなければならない」は、誰かが誰かに要請するものではな く、それらが「誇り」であり 「希望」であるという事実自体を要請している。言い 換えればこれは、レイテ戦の全体を見渡しながら戦いを再現している大岡の俯 瞰的目、あるいはもはや大岡の目とさえ言えない、第三者の目から見た要請な のである。 [End Page 151]

大岡は、帰還してから『捉まるまで』を執筆するまでの「書けないで」46 過ごし た期間、戦前から愛好していた囲碁の棋譜を並べながら、囲碁の解説文の「威厳 と風格」に撃たれていた。それは、事実を過不足なく描くことから自ずと生まれる 風格である。そして、「碁を解説するように、自分の経験を説き明かすことは出来 ないものだろうか」47 と考えた。個人の感情、思考に依存しない、何らかの客観的 基準に照らして過不足ない表現で書くことが『捉まるまで』の方法の基盤となっ た。叙述の主体は、「事実と判断」する「私」ではなく、「私」がよって立つ判断基 準である。その叙述の主体が発した言葉が「でなければならない」であったので はないか。あるいは少なくともそうそれが発しているように書いたのではないだ ろうか。

すでに述べたように、大岡は、「でなければならない」をしばしば用いる書き 手である。その意味では、今述べたことはそのあらゆる箇所に妥当であり、大岡 は、同様の要請をしばしば行う書き手であるという考察ができるかもしれない。 その各所においてその程度や要請の対象について検討する必要が本来ある。 しかし、要請の内容からして、特攻を対象に用いられたこの「でなければならな い」を、大岡の一つの表現レパートリーが、最も強い意味で、最も切迫した感情 の中で使われた例とみなしてよいだろう。

「でなければならない」に注目して検討を少し加えた。ここで大岡は、特攻 士の中に、最後まで攻撃目標に向けて操縦桿を操作し、攻撃に成功したものが あったことを「誇り」「希望」 とした。それを大岡は第三の視点からの要請として 書く。しかし、にもかかわらず、俯瞰を可能にし、あるいは俯瞰に全力を尽くす よう大岡を駆り立てたのは彼の情念である。先に見たとおり、『レイテ戦記』を 支える情念の一つの源が霊を慰める執筆動機にあり、特攻士の霊もその一部 に位置付けられる。 しかし、特攻士に向ける大岡の思いには、死者の霊一般へ の思いを超えた突出したものがある。その大岡の情念の起源に今一度焦点を 当ててみよう。

6. 情念から約束へ

大岡が特攻に向ける情念の由来については、今までの議論からある程 度推測できる。まず、大岡は、『捉まるまで』において「死を控えた生」のさまを 報告し、死を決意しながら生の側に戻った自分を見出した。選んでいない生、 あきらめていない死を背景とした「意味を失いがち」な存在のなかで、彼は死 と生の境の体験を、『武蔵野夫人』『花影』『事件』における死んでいく女性に 託して描いた。そして、レイテ戦という一つの戦いの全体を書く試みを始めたこ ろ、 ミンドロ島を再訪した。 [End Page 152]

実は帰国後早い時期に、彼は、レイテ島への機上で特攻士に思いを馳せ たことを新聞紙上の短文で触れている。ただし、そこでは、「神風特攻隊は重い 二百五十キロ弾と確実な死を抱いて、この美しい海の上をレイテ島沖を目ざし て飛んだのだ、 という感慨」48 と短く記すのみであった。特攻士への思いは、『レ イテ戦記』の構想時からある程度あったであろうが、レイテ島、 ミンドロ島再訪、 『レイテ戦記』執筆、『ミンドロ島ふたたび』執筆という時系列の中で深化して いったであろう。

レイテ島、ミンドロ島の再訪体験は、『レイテ戦記』を書き進める大岡の 筆に大きく作用し、その作用の中で特攻の章の執筆が行われた。執筆過程で彼 は、自身の体験を特攻士に重ねながら「他者に憑いた」視点から特攻士の体験 をたどったはずである。そして『レイテ戦記』の完成後に書かれたのが『ミンドロ 島ふたたび』だった。 したがって、『ミンドロ島ふたたび』に書かれる再訪体験は、 『レイテ戦記』執筆に影響されている。先に引用した特攻士への呼びかけは、 再訪時の体験に潜在的に含まれながら、『レイテ戦記』の執筆過程で顕在化し、 『ミンドロ島ふたたび』ではじめて言葉となってほとばしったと推測できる。

彼は、自身の「死を控えた時間」を特攻士の体験に重ねたが、特攻士のそれ と自身のそれとの間に根本的差異があることも知っていた。その認識は彼にと って痛いものである。つまり、特攻士は、自らを犠牲にすることを決断して「一線 を越え」、出撃までの時間を耐え、その意思を捨てることなく出撃して、実際に 死んだ。 しかし、大岡は、自らの意思によってではなく、 しかも犠牲にするという 大目的なしに、死を控えた世界に入り、そして自らの意思と関わりなく、偶然に よってその世界から出た。その結果世界が自らにとって意味を失うのを経験し た。その彼我の違い、極端までのその違いに大岡は圧倒されていたであろう。

一歩引いて見れば、偶然によって生還した兵士は彼だけではないし、戦うこと を意志しなかった兵も多いであろう。大岡の生還は、決して例外的な事象ではな いと思われる。そうした場合、それを幸運と考えて生きる可能性もあるし、罪責感 を抱えながら生きる可能性もある。後者は、多くの帰還兵が体験する「生存者罪 責感」であり、スタールの言う 「生き延びの重荷・責務 burdens of survival」であ る。これも例外的な体験ではない。あるいは、信仰を持つものであれば、偶然で はなく 「神によって生かされた」 として感謝の元に生きることもまたあり得るだろ う。ただ大岡には、神に生かされたと考えることができない理由があった。青年 期において一度キリスト教に深入りし、のちに離れた歴史が彼にあるからであ る。大岡は神に生の根拠を求めることをすでにやめていた。彼は、一文士とし て、唯一人、自身の生の根拠喪失に直面し続けた。その過程で、特攻士は、彼に とって、自身の生を考える参照枠になっていったのではないだろうか。 [End Page 153]

大岡は、戦後作家として華々しく文壇に登場し、実際人気作家としての地位 を築く。そして「結構呑気な生活を送っていた」49 時期もあった。 しかし、彼の中 に、戦地の生活が生き続けていることを『レイテ戦記』執筆や、 ミンドロ島再訪 によって実感する。 ミンドロ島で、もはやかつて皆がいたルタイ高地を訪れるこ とが叶わないとさとったとき、彼は戦友たちにこう語りかける。

戦後25年、おれの俘虜の経験はほとんど死んだが、きみたちといっしょにし た戦場の経験は生きている。それがおれを導いてここまで連れて来た。50

彼は、ミンドロ島再訪によって、あらためて自身の「捉まるまで」の体験を振 り返り、特攻士と対比させながら自身の存在の危うさを認識した。しかし他方 で、彼はこのとき何かを戦友たちに約束をしたことを明かす。

私がここで戦友になにを約束したかはいいたくない。やるまではなにもいわ ないのが私の主義である。25年の後、私をここまで導いた運命を、私は受け 入れるつもりである。

生き残ってここまで来た運命を受け入れたとき、彼は何らかの生きる根拠を 見出し、それに基づく何かを約束したのであろう。その約束が何かを大岡は語 らない。戦場を共にして偶然生き残った自身だからこそできる何かなのであろ う。

それが『レイテ戦記』の完成ではないことは間違いない。完成後に書かれた 言葉だからである。また、他の何らかの作品の完成である可能性もほとんどな い。彼が戦争について書いたもののうち最大の作品が『レイテ戦記』であり、そ れ以降に書かれた小品があるとしても、戦友に約束するほどの作品構想があっ たとは思えない。

作品に関するものでなければ、戦争にかかわる政治的な行動であろうか。「戦 場の経験は生きている」ことを先の文で書いた後、彼は次のように記している。

もうだれも戦争なんてやる気はないだろう。同じことをやらないだろう、と思 っていたが、これは甘い考えだった。戦後25年、おれたちを戦争に駆り出し た奴と、同じ一握りの悪党共は、まだおれたちの上にいて、うそやペテンで 同じことをおれたちの子供にやらせようとしている。

兵力を備え、「戦争のできる国」に日本をしようとする動きを、大岡は危機感 を持って受け止める。大岡は、すでに多数の著作を持つ著作家であり、社会的 地位を築いていた。しかし、戦友に語るとき、彼は兵士たちの一人であり、一市 民として、「おれたちの上」にいる「悪党共」について語る。この記述からすれ ば、そうした動きに抗することが約束であった可能性もある。ただし、彼が政治 [End Page 154] 的な活動によってそれを果たそうとした形跡はその後もない。戦争遂行を志向 する日米安保条約に嫌悪を覚えた彼51 が、文士としてその流れに抗する思いを 固めたのではないかと推測できるが、具体的な内容は謎として残る。

自らが成し得なかった生と死の過程を完遂した特攻士を「誇り」「希望」とする情念と、反戦の情念とは大岡の中で両立する。彼が戦友に行った約束は、自 らがかつて到底成し得なかった、自己犠牲に基づく、自身の倫理感に従って行 う何がしかの行為であったのだろう。その意味で特攻士は彼に希望を与えるモ デルであり、特攻士の意志を自らに求めたに違いない。しかし、大岡の意志の 向かう方向は、逆説的だが、特攻士のように「自己犠牲の志願を強いられる」こ とのない社会であったのではないか。

7.結語

前項の末尾は、本論を書いている筆者の推測である。大岡の中で、特攻 士への思いと自身の約束が明確に結びついていたとは限らないし、別種の約 束があった可能性も否定できない。ただ、彼の体験と論述全体から、推測され る方向性を述べた。

筆者は、作戦作成者の堕落や醜悪がありながらも、特攻士がたどる自己犠 牲への決断、遂行の意志といった各段階において、通常であれば最高度の倫 理的価値が見出されるものを特攻が含んでいること、それゆえに受け継がれ、反復されることを別の機会に述べた52 。今日の自爆テロは、テロリズムであるが ゆえに非難されるべきであり、決して容認できるものではない。しかし、そのな かに、神風からの遺産が含まれていることの自覚なしにはまたその抑止、防止 も困難であると考える。

命を捨てるほどの「自己犠牲」を可能にする進化を果たしたことが、人類誕 生の過程の本質的部分であるという指摘がある53 。環境がそれを要請したと き、命を捨てる自己犠牲が実現されるのは、人間の本性なのかもしれない54 。しかし、どこまで大岡の実際の約束なのかは別にして、私たちが目指すべきもの は、「自己犠牲への志願」が賞揚されることのない環境の実現による、過度の自 己犠牲への依存からの離脱でなければならない。

1. 大岡昇平の「平」には異字体があり、大岡は、異字体を自身の名前に用いている。つま り、二本の横棒の間の左右にある二画(点と払い)の向きが通常は上開きだが、大岡の用いる 異字体は下開きである。『全集』を始めとする大岡の作品でも、大岡を扱った著作でも、大岡自 身の選択に従って異字体を用いるものが多いが、英語雑誌に掲載される本稿では、簡便のた め正字を用いる。

2. a "long journey of formulation that began in naked, guilt-ridden survival and ended with the fruitful completion of survivor mission" David C. Stahl, The Burdens of Survival: Ōoka Shōhei's Writings on the Pacifi c War. (Honolulu:University of Hawaiʻi Press, 2003), 1.

3. 第二次世界大戦において、自爆攻撃(suicide att acks)作戦を実施した日本の攻撃隊 は、特別攻撃隊tokubetsu kōgekitai (literally: "special att ack unit")と名付けられ、略して tokkōtai、あるいは攻撃を指してtokkōと呼ばれる。レイテ戦において編成された神風(shin-pū)攻撃隊から、神風(カミカゼkamikaze) という呼び名が一般化し、同種の作戦全体を代表 して使われることが多い。大岡も神風の語を用いて論じている場合がある。本論では、『レイテ 戦記』の多くの箇所の使用に従って「特攻tokkō」および「特攻士tokkō pilot」を用いる。

4. 『全集』9, 206.

5. 鈴木斌 Akira Suzuki 『大岡昇平論』 (徳島:教育出版センター, 1990), 73.

6. 自殺攻撃に関する英語には、suicide att ack, suicide campaign, suicide mission, suicide bombing等があり、その包含範囲にはずれがある。次の拙論を参照。Shigeyuki Mori, The Japanese contribution to violence in the world: The Kamikaze attacks in World War II. International Forum of Psychoanalysis, 2017. https://doi.org/10.1080/0803706X.2017.1367841

7. David C. Stahl, The Burdens of Survival: Ōoka Shōhei's Writings on the Pacific War. (Honolulu: University of Hawaiʻi Press, 2003).

8. 大岡は戦前と出征までの戦中に、すでに文学評論、翻訳、若干の小説を発表していたの で、厳密に言えば戦後デビューとは言えない。しかし、出征前の大岡は主としてスタンダール研 究家として知られており、小説家としての実質的なデビューは戦後と言ってよい。

9. 『捉まるまで』は最初「俘虜記」として『文学界』に発表されたが、後に捕虜としての経 験をまとめた『俘虜記』(横光利一賞受賞)の第1章に収録され、その際、「捉まるまで」と改題 された。本書では、初出の「俘虜記」を指して『捉まるまで』 と呼ぶ。なお、英語訳は、スタール はBefore Captureとしているが、次の『俘虜記』英語版では、第1章をMy Captureとして いる。本論の英語版では文脈の中で用いやすいBefore Captureを用いる。Shōhei Ōoka, Taken Captive: A Japanese POW's Story. (Hoboken: Wiley, 1996).

10. Shōhei Ōoka, (Ivan Morris, trans.) Fires on the Plain. (City of Westminster: Penguin Books, 1957/North Clarendon: Tutt le Publishing, 2001.)

11. ゆりはじめ『大岡昇平論 美意識の使徒』 (東京:マルジュ社, 1992, 10-11). 他にも5主 題に分けた菅野昭正Sugano Akimasaなど、大岡作品のジャンル、主題の整理は様々ある。菅 野昭正「小説家・大岡昇平」 (東京:筑摩書房, 2014), 176-177.

12. 『大岡昇平全集』 (東京:筑摩書房, 1994-1996). 以下『全集』と表記する。

13. Shōhei Ōoka, The Shade of Blossoms. (Ann Arbor: University of Michigan Press, 1998).

14. Shōhei Ōoka, A Wife in Musashino. (Ann Arbor: University of Michigan Press, 2004).

15. 松元寛『小説家 大岡昇平―敗戦という十字架を背負って―』 (東京:東京創元社, 1994), 10.

16. 花﨑育代『大岡昇平研究』 (東京:双文社, 2003), 175.

17. 『全集』11, 439-618.萌野(Moya)は、訪問直後に生まれた孫娘の名。

18. 以下のエピソードは、『全集』11, 482-484.

19. David Madden (ed.) Rediscoveries: Informal Essays in Which Well-Known Novelists Rediscover Neglected Works of Fiction by One of Their Favorite Authors. (New York: Crown Publishers, 1971).

20. Stahl, ibid., 32.

21. 『全集』2, 14.

22. 『全集』2, 32.

23. 『全集』2, 40.

24. 『野火』の田村が大岡個人の体験を映し出していることは言うまでもないであろうが、両者の関係については、Stahlの「分身 Alter Ego」、原の「四重構造」など様々の論がある。原子朗『野火』亀井秀雄編『大岡昇平『野火』作品論集』 (東京:クレス出版, 2003), 56-64.

25. 本稿が扱っている「生の意味」を考える上で、大岡にとっての神の表象は本来欠かせな い主題である。少年時代に一度キリスト教に接近しながら、意志的に離れた大岡にとって、ここで「神」を持ち出した動機の一部は、西欧を中心とするキリスト教世界に対する挑戦にあった。大岡自身このある種不純な動機を振り返ったことが、「感傷」を配した戦記としての『レイテ戦 記』の執筆動機の一部となっている。次の文献を参照。佐藤泰正「陰画としての神—『少年』と『野火』を中心に」『群像日本の作家19 大岡昇平』 (東京:小学館, 1992), 171-179. 花﨑育 代 前掲書. 特に、第12章「光>のイメージと意味」273-297.

26. 花崎の指摘によれば、「戦争もの」と「恋愛もの」を並行して書いていた大岡が、両者が 「別の系統のものではない」ことをドニ・ド・ルージュモンDenis de Rougemontの『恋愛と西 欧』に学んだことが、それまでの戦争ものと異なる方法と目的で『レイテ戦記』を書く契機になっ た。花﨑育代 前掲書, 175-202.

27. 小林秀雄「武蔵野夫人」『群像日本の作家19 大岡昇平』 (東京:小学館, 1951/1992), 92-96.

28. 『全集』11, 615.

29. 彼女たちに、坂本睦子の死が重ねられていることは大岡の作品を考える際のもう一つ の重要な主題と思われる。ここではその問題を脇において論を進める。恐らくは、戦場の体験と 睦子の死の両者が、大岡の多くの作品に溶け込んでいるのであろう。加藤典洋、佐々木幹郎、樋口覚「大岡昇平の世界」ユリイカ, 26, 11, 1994, 188-189.

30. 『事件』ははじめ新聞小説『若草物語』として1962年に発表された。その後裁判制度全 体を描くために大幅に加筆して、1977年に『事件』が完成した。したがって、『若草物語』の執筆 が『レイテ戦記』に影響し、『レイテ戦記』執筆が『事件』完成に影響するという双方向的な影響 関係があると思われる。この影響関係については以下の拙論を参照。森茂起「『事件』における 被害の構造」甲南大学紀要文学編,142, 2006, 1-26.

31. 執筆の経緯は「『ミンドロ島ふたたび』その後」に詳しい。『全集』10, 439-442.

32. 以下の記述、引用は、『全集』10, 333-337. による。

33. 柴口純一『大岡昇平と歴史』 (東京:翰林書房Kanrin Shobō, 2002), p.101.

34. 本来トラウマの定義の検討が必要だが、ここでは筆者がしばしば用いる次の定義に 従っておく。「心的トラウマとは、脅威的な外的要因と個人の防衛能力の間に重大な落差が生 じる体験であり、絶望感と抵抗放棄が伴い、そのため自己と世界への理解に持続的な不安定 を引き起こす。」(訳筆者)Psychische Traumatisierung lässt sich defi nieren als vitales Diskrepanzerlebnis zwischen bedrohlischen Situationsfaktoren den individuellen Bewältigungmöglichkeiten, das mit Gefühlen von Hilfl osigkeit und schutzloser Preisgabe einhergeht und so eine dauerhafte Erschütt erung von Selbst und Weltverständnis bewirkt. Fischer & Riedesser, Lehrbuch der Psychotraumatologie. (Stutt gart: UTB, 1998), 375.

35. 『全集』2, 425.

36. 「圧倒的」「圧倒された」など。たとえば以下のもの。菅野昭正「解説」.大岡昇平『レイ テ戦記(下)』 (東京:中央公論社, 1974), 391. 飯田善國「『レイテ戦記』を読む」ユリイカ, 26, 11, 1994, 262.

37. 『全集』9, 122-123.

38. 『全集』9, 51.

39. 寺田透「『レイテ戦記』」柴口純一 前掲書, 98.

40. このスタイルは、若い日にまで遡る大岡の思考と感情のあり方である。彼はこれを「二 重性」と呼んで『萌野』に次のように記している。「感情的動機に必ず理屈をつけるのは、中原 中也譲りのもので、私はもうこの二重性に馴れている。」『全集』11, 450.

41. 『全集』9, 200-221.

42. 小林照幸『父は、特攻を命じた兵士だった。人間爆弾「桜花」とともに』 (東京:岩波書店, 2010), 66-67.

43. 漢数字をアラビア数字に改めた。

44. Stahl, ibid., 234, 238.

45. 堀巌「『野火』の文体」亀井秀雄編『大岡昇平『野火』作品論集』 (東京:クレス出 版,2003), 74.

46. 「神経さん」『全集』2, 338.

47. 同上, 342.

48. 「フィリピン紀行」『全集』20, 555-556.

49. 『全集』10, 327.

50. 同上, 426.

51. 日米安保条約締結が大岡の作家歴を区切る一つの事象であることが指摘されている。花﨑育代 前掲書, 175-178.

52. Mori, ibid.

53. 大澤真幸 「暴力性の由来」『本』講談社, 42, 12, 2017, 61.

54. それゆえ、命令に反抗し9回出撃して9回帰還した特攻士、佐々木友次の存在が「僕 と日本人とあなたの希望」(強調筆者)になるという鴻上尚史の言葉を重く受けなければならな い。鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』講談社, 2017, 292.

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2045-4740
Print ISSN
2162-3627
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pp. 139-159
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2019-05-29
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