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  • 日本の戦後史における声の消去デリダ・カルース・大江
  • 下河辺 美知子

はじめに

大日本帝国は、1941年12月8日(日本時間)の真珠湾攻撃により第二次世 界大戦に参入し、1945年8月14日、ポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した。日本という国は、どのようにして国家にとっての最重要課題である戦争という出 来事を歴史化したのか。その答えは、戦争の全行程のどの部分に焦点をあてる かにかかっている。戦争勃発の時点、忍耐をしいられた戦争続行中の五年間、それとも戦争終結と戦後――これらのどの時点に焦点をあてて歴史をつむぐ のか。

フロイトは、アインシュタインとかわした書簡の中で「人間がもつ攻撃的衝 動を完全に除去しようとしても成功の見込みはない」(Freud, 1933, 358)と述べ ている。第二次世界大戦に対するフロイトの反応について、ピーター・ゲイは『フ ロイト:われわれの時代の人生』において次のように述べている。「この戦争は、それに先立ついかなる戦争よりも血みどろの抗争へ陥っていき、敵に対する憎し みと蔑みの噴出という"想像を絶する現象"を生み出した」 (Gay 355) 。"想像を絶 する現象"という表現は、敵に向けられた暴力的かつ直截的な憎しみの表出であ り、「人間の攻撃性の衝動」とフロイトが述べたものの最もいまわしい形である。戦争についての論文の中で、フロイトはひとえに人間の心理に焦点をあてており、 「すでに起こっており、そして起こりつつある大いなる変化」(Freud, 1915, 61)に向き合った。

いかにして戦争が勃発し、どのように遂行されたかの研究は、精神分析にと って興味あるテーマである。しかし、本稿では、戦争終結時および終結後にお ける個人と国家の心理的メカニズムを分析していきたい。日本にとって第二次 [End Page 95] 世界大戦はどのように終結し、敗戦国としての日本はどのようにして戦後社会 へ移行したのだろうか。

「戦争はなぜ」においてフロイトは、人を殺すことで満足する「本能的傾 向」 (Freud, 1933, 350) について述べている。アインシュタインが示した懸念に ついて、フロイトは、殺人にもつながる憎しみを人が心に宿すことについて次 のように説明する。

「人間を戦争に熱狂させることはいともたやすい。憎しみと破壊へ向かう 衝動が人々の心の中で活動し、あのような扇動を受け入れるのではない か」

(Freud, 1933, 355)

そうであるとすれば、ひとたび戦争が終わった時、敗れた国の国民は「憎し みと破壊へ向かう衝動」をどのように処理するのかを調べてみることに価値が あるのではないだろうか。

敗戦国がその歴史を構築するにあたって障害が二つある。一つは、戦争 継続中に共同体を支えてきた強力な心的エネルギーを停止させる難しさであ る。今一つは、敵側の人間を実在の存在として認知するための複雑な心理過程 である。国民は、愛国的主張や誇張された日本なりの"大義"のためにあの戦争 を戦ったわけであるが、戦争終結となったとき、次のような問題が生じてきた。 日本は無条件降伏を受諾する際に、その攻撃性をどのように処理したのか?か つての敵であったアメリカのイメージは日本人の心の中でどのように変容した のか?

第二次世界大戦終結にさいしての日本の降伏は以下のように進められ た。1945年8月14日、日本政府が連合国にポツダム宣言を受諾することを通知 する。8月15日、日本の無条件降伏は天皇ヒロヒトによってラジオにて発表される。1 8月30日ダクラス・マッカーサー(連合国軍最高司令官)が東京に到着し、破壊された国家を再建する任務にとりかかる。9月6日「日本降伏後のアメリカ 側基本政策」がトルーマン大統領によって承認される。2 以後、1951年の占領 終結までの六年の間、日本における軍事政権はアメリカ一国によって担われる ことになる。1951年9月8日、サンフランシスコ条約が締結され、1952年4月28日に 施行されると連合国のすべての占領は廃止されて日本は主権を回復した。

占領下日本の統治形態は二重の局面をもっていた。第一に、占領は、日 本国家から戦争遂行能力を剥ぐことを目的に行われた。第二に、外国軍の支配 下にありながら、日本は民主主義国家になるようにと奨励された。日本占領に際 して行われたこれら二つの方針は個別に実施されたので、時として日本文化に 矛盾した効果をもたらすことになった。前者は象徴的去勢として機能したが、後 者は日本が国家として成熟することをうながしたからである。さらに言っておく [End Page 96] べきは、戦後日本は、アメリカ合衆国一国によって占領されたため、合衆国は日 本社会にたいして、政治的にも文化的にも最大限の影響力を行使することにな った。3 戦争が終わり、現実のアメリカ人が占領軍として日本にやってきたと き、日本人はかつての敵国アメリカ合衆国とどのように遭遇したのであろうか?

1.出来事の消去/消去という出来事

ノーベル賞作家大江健三郎4の短編小説「不意の唖」は最初『新潮』 (1958年9月号)に掲載された。5「日本の敗戦が大江を小説家にした」6 と言わ れているが、彼が作家としてのキャリアを歩み始めたときとりあげたトピックは、四国の故郷での幼少の記憶、子供のころの体験としての日本の敗戦、そして、日本の戦後史の源泉であった。そして、これらすべてが二十頁あまりの短編「不 意の唖」の中に込められている。この作品は、一日に二つの殺人を目撃するこ とになる少年のトラウマ的体験を書いたものである。村の長である彼の父親が 射殺され、外国兵とともに村にやってきた日本人通訳が川で溺死させられるの だ。物語の概要を記しておこう。7

第二次世界大戦終結後まもなく、日本の小さな村に進駐軍の外国兵たちが やってくる。村人たちはこわごわ、しかし、興奮して彼らを迎え入れる。大人 の男子と子供たちは訪問者たちがなすことを興味津々で見ている。外国兵 たちが川で水浴びをしに行くと、日本人通訳もそれに加わる。彼らが川から 帰ってくると、通訳の靴がないことが判明する。誰かが靴を盗んだと思いこ んだ通訳は、少年の父である村長に盗んだ人間をさがせとせまる。村長が 拒否すると、通訳は激高して父の顔を激しくなぐったので、父の口からは血 が流れ始める。怒りに煮えたぎりつつ村長が歩み去ろうとすると、通訳が外 国語で何かを叫び、それと同時にライフルの銃声が鳴り響く。少年は父が地 面に倒れて死ぬのを見る。その夜、もう一つの殺人が起こる。少年は通訳を 川の深みのところまで案内する。そこで「暗闇から現れた幾本かの腕」が通 訳を襲い溺死させる。翌朝、外国兵たちは村を立ち去っていく。何も話そうと しない村人たちと、二つの殺人が解決されぬままに。

物語を読むわれわれ読者は、この村におこった途轍もない出来事を時間 の経過にそって追うことができる。しかし、物語の内部の人間たちは、平和な村 に起こった致命的な状況の目撃者として、この出来事を語るのに十分な能力を もってはいない。

最初の殺人―村長の射殺―の過程を追ってみよう。村人たちは通訳と 村長との対立がエスカレートし、ついには通訳が怒りに我を忘れ暴力に訴える までの様子を観察している。しかし、それが誰かの死へと発展するなどと予測 [End Page 97] した者は一人もいなかった。少年は父の身体が空中を舞い地面に落ちるのを 見るのだが、彼は、父の死を目撃する心の準備はできていない。出来事はあま りに突然に起こったので、このことが与える脅威をそれとして認知するのに間に 合わない。それ故、死にゆく父の視覚的イメージは村人と少年にとってトラウマ となる。キャシー・カルースはあまりに素早くおそってくる刺激がトラウマを引き 起こすことについて以下のように言っている。

精神にできた亀裂とは、・・・生命が肉体的危機にさらされたことから生じた のではなく、その脅威をそれとして心が認識するのに一瞬おくれをとってし まったから生じたのだ。死の威嚇に対して精神が取り結ぶ関係が衝撃とな るのは、その威嚇を直接体験したためではなく、それをリアルタイムで体験 できずに逃してしまい、そのことを十分に認識することができなかったという 事実のためである。

(カルース1996, 62 ボールド・カルース、下線・下河辺)

村人たちと同様、少年は父の死をリアルタイムで体験してはいない。なぜな ら彼は、そのような途方もない衝撃を受け入れる心の準備ができていなかった からだ。彼の中で父の死の光景の記憶は、失われたままトラウマとなる。出来事 の記憶は、失われた体験として誰からも認識されることはなく回帰し続け、その 中で、村の歴史は消去されるのである。

二番目の殺人は明らかに村人たちによって行われている。にもかかわら ず、その出来事の記憶はさらに念入りに消去されている。実行者たちは、殺人 前も、殺しの最中も、そして実行した後も完全に無言をつらぬいている。8 この犯罪が警察によって公式に語られる可能性や、さらには村人たちによって私 的な場面で語られる可能性は、公衆の面前で行われた一つ目の殺人以上に低 いものである。翌朝、兵士たちは、村人たちに通訳の死体を水中から引きあげさ せようとしたが成功せず、仕方なく自分たちで死体を回収し、村を去っていく。あ とには物言わぬ村人たちを残して。

短い物語はここで終わる。第一の殺人についても第二の殺人についても 捜査が行われる可能性はない。二つの殺人がどのように処理されたかについ て、日本の警察、あるいはアメリカ軍によって記録が書かれることはおそらくな いからだ。この点についてのテクストの沈黙は、村人たちの無言と手に手をとっ て、村の歴史を消去するのである。

歴史はトラウマと同じ機能をもっている。カルースは言う。

歴史はそれが起こっているときには十分知覚されていないという、まさにそ の限りにおいて指示的である。別の言い方をすれば、歴史とは、その出来事 を把握できぬその状況において把握されるのである。

(カルース1996,18) [End Page 98]

物語内部にいる村人たちもテクスト外にいる読者もその出来事にアクセスでき ないという意味で、この村の戦後の歴史はトラウマの歴史である。そして、出来 事が消去されるという限りにおいて、出来事の消去 (the erasure of the event) 自 体が出来事 (event) なのである。「不意の唖」の中のフィクションの村でおきたト ラウマ的出来事の消去が、戦後日本の歴史と重なるのはこの地点においてで ある。

2.失われた声としての無音

「不意の唖」で起こった歴史の消去のわけは、村人たちとってすべてがあ まりに突然に起こったためにその意味が把握できないからであった。しかし、そ こには、さらなる理由がある。カルースは出来事の消去を引き起こすトラウマの もう一つの局面について述べている。

トラウマの持つ歴史的な力は、忘れられた後になってもその体験がくりかえ されることだけにあるわけではない。初めて体験しているその最中に忘却と いう事態がつきまとっていることに、トラウマが歴史にふるう力はあるのだ。

(カルース1996, 17 下線・下河辺)

忘却とは記憶の消去であり、それは本来体験に付随しているのだ。言い換える と、われわれは体験することと忘却することを同時に行っており、この二つの精 神的機能の間に違いはないのである。

忘却しつつ体験すること。これが人を歴史の目撃者とするのであるが、目 撃者は二つの状況に置かれることになる。一つはその人がその場に居合わせ ること。今一つは、そのことを他者に向けて伝達できることである。

一番目の局面において、目撃者はただそこにいればよい。五感―視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚―を使い、起こっていることについての情報を受け取る のである。しかしながら、破壊的出来事を目撃した時は話が違ってくる。そうし た状況に置かれた人は、経験しつつ忘却することになり、その出来事に直接ア クセスすることを阻止されてしまうのだ。出来事に対する反応は、侵入してくる 現象として繰り返されて、本人は制御できない。トラウマを患った目撃者は、そ の出来事を他者に、あるいは、自分自身にさえ伝える能力を獲得することはな いのである。

無音が目撃者の存在を支配しているのは、この二番目のモードにおいて である。内面から語りかける心の傷の声を耳にしながらも、そのことを表現する 適切な言語を獲得することなく、目撃者はその情景が繰り返されるままに身を ゆだねる。無音はトラウマのシーンにおける声の喪失の表象であり、トラウマ記 憶を言語化する不可能性を表している。 [End Page 99]

無音のレトリックは「不意の唖」の中に溢れている。物語の中で目撃者の 少年を含む村人たちは二十四時間の間に二人の日本人の死を経験する。「黙 って」「黙ったまま」「黙り込んで」と言う言葉は短いテクストに十五箇所に現れ9 日本語の「黙る」は自動詞であり、言葉を話さないこと、声を発しないこ と、そして話すことを拒絶することなどの意味がある。テクストの中では「黙っ て」のように副詞として使われることがほとんどで、無音というより人々が口を きかない無声を表現するものとなっている。

この作品における無音のレトリックは二通りの使われ方がされている。一つ は、話したり行ったりすることを要請されても村人たちがそれに反応を示さない こと。二つ目は、自身が考えたり行ったりしていることについて彼らがいかなる 情報も言語化しないことである。前者のケースとしては、盗まれた靴の捜索をせ よと金切り声で叫ぶ通訳の要求にたいして、「父親は黙っていた」という村長の 無反応の描写があてはまるであろう。

その他の「黙って」というレトリックは、後者の意味―自ら考えていること を言語として表現しない—で使われている。「黙って」は全部で十五箇所出てく るが、そのうちの十箇所は村長が射殺された後である。通訳殺しの計画及び実 行のすべてのプロセスにおいて、村人たちは口を閉ざしている。彼らは、仲間同 士のみならず、テクストの読者にたいしても何も語らない。「大人たちは黙りこん でゆっくり」 (209) 坂を上ってきたが、少年は「身動きせず黙って」 (209) 大人た ちが家に近づいてくるのを見ている。大人たちが通訳を水中に沈める作業は無 言のうちに行われ、テクストからは何一つ音は聞こえてこない。「彼ら(大人たち)が無言のまま帰っていくと」少年は家に走り込んで「黙ったまま土間にあがり・・・ 声を上げずに泣いた」 (213)。

大江のテクストに描かれた殺人の描写の中からも、音声は聞こえてこな い。話すことを拒否すると決意してでもいるかのように、村人たちが言葉を発す ることはない。テクストの沈黙は、殺人実行者たちの沈黙同様、殺人の全行程 において二重の意味を持っている。一つは、村人たちが殺人の準備期間、仲間 同士の間でさえ黙ったままであるという点。二つ目は、物語の中の人々が何を 感じ、いかようにして、そしてなぜ、彼らは秘密の仕事を成し遂げようと決心し たかについて、テクストが読者に語ることはない。いつ、どこで村人たちは殺人 計画を開始し、いかにして彼らは秘密のうちに殺しの計画を練ったのか。こうし たことがテクスト内で語られることはない。

テクストの沈黙は通訳の死の場面だけでなく、その前後のシーンにもあ ふれている。われわれは、少年がどのようにして、いつ、その計画に参加する気 にさせられたのかについて知らされることはない。大人たちが彼を連れに家へ やってきたとき、彼らは「黙ったまま少年を見つめた」 (210) だけだった。言葉 [End Page 100] をかわすこともなく、少年は立ち上がり、大人たちについていく。彼は通訳を誘 い出して川へ連れていく役目を引き受けていたのだ。橋のところまでくると、黙 って自分を見つめる大人たちを後に残し、少年は通訳をよび出すために校庭ま で一人で走っていく。

通訳殺しの最中も、テクストから聞こえてくる言葉は一つもない。10 「数人の大人たちの身体が」水中に潜って通訳を沈め、その無言の行為の中で、か わるがわるに水面にあらわれる。その後、彼らは「黙ったまま」 (213) 村へ帰っ ていく。殺人が実行された後でさえ、大人たちの言葉は一つもテクストには記さ れていないのだ。

翌朝、外国兵たちは死体が川に浮かんでいるのを発見し、村人たちにそ れをひきあげさせようとする。兵士らの要求に対して村人たちは何の反応も見 せはしない。

大人たちは、耕作したり、蜜蜂の箱をなおしたり草を刈ったりしていた。外国 兵たちが身ぶりでその意思をしめしても大人の村人たちはまったく反応を示 さなかった。そして外国兵たちを樹木か鋪石のように見て、仕事のつづきに とりかかる。みんな黙りこんで働いていた。外国兵が村に入っていることを 忘れてしまっているようだった。

(214)

このシーンでは無音が三つの意味を持っている。外国兵たちにたいする村人た ちの無視、村人たちから声が発せられぬこと、そして村人たちが考えていること の情報がもたらされないこと。初めの二つは村人たちの無声であり、最後のも のは大江のテクストの無声である。きちんと話されていれば人々の言葉として 聞き取れたはずの声という音声が、ここでは完全に欠落している。さらに、この シーンには、聴覚的無音に加えて、もう一つの無音が書きこまれている。村人た ちも、テキストも、出来事についての情報を何一つ漏らさないのだ。こうした状 況のもとでは、二つの殺人についての公式報告がこの村の歴史の中に記録さ れる可能性は皆無である。

体験したことをテクストの内外の他者に伝えるのが目撃者の任務である とすれば、無声をつらぬくこの物語の村人たちはその目撃者になれなかったこ とになる。彼らはなぜ自分たちの体験に声を与えることができないのか。それ は、体験している最中にそれを忘却している。それ故、無音の村で起こった出 来事は典型的なトラウマの事例となる。トラウマの力は「初めて体験している最 中に忘却という事態がつきまとっている」(カルース1996, 17 )のである。その場 に居合わせた人間からその声を奪うことによって目撃者はいなくなり、かくして 歴史は消去される。テクストの沈黙は歴史の消去の表象であり、そこでは、過去 を追跡する者は誰もいない。 [End Page 101]

3.前もっての消去(あるいはアーカイブの欲動)記憶の消去と歴史についてカルースは以下のように述べている。

言い換えれば、これらの記憶は反復され消去されるうちに、歴史を表象する というより歴史を演じているのである。そうした記憶は、歴史を消去すること によって歴史を作り出している。・・・そして、歴史を消去する中で、そうした 記憶は歴史を創出しているのである。兵士たちは、いわば、自己消去を歴 史に刻むものなのだ。(カルース2013、78 ボールド・カルース、下線・下河 辺)

「兵士たち」とは第一次大戦を戦った兵士のことであり、彼らが死と直面した様 子を、フロイトは「快感原則の彼岸」で描いている。カルースによれば、兵士たち の記憶は、反復と消去を絶え間なく演じて歴史を消去することによって逆に歴史 を作り上げている。「不意の唖」の中の村に起こった出来事の記憶も、村人たちが 体験し行ったことを無音の中に消し去ることによって歴史を創出しているのであ る。もし歴史が記憶の消去によって作り出されるというのなら、消去自体が歴史に とっての重大事件となるであろう。それは「消え去ることによって、逆説的に構築 されるという新しい種類の出来事」(カルース2013、77)なのだ。「兵士たちが、自己消去によって歴史に刻まれる」のと同じく、「不意の唖」の村人たちも、自己 消去を歴史に刻んでいるのである。

ここで「不意の唖」における無音の議論を、記憶の消去が歴史をつくると いう特異な事態をのべたジャック・デリダのアーカイヴの概念へとつなげてい きたい。デリダは二十世紀における出来事の記録の独特な局面を「アーカイヴ の欲動」と呼んだ。精神分析の文脈において、欲動とは物事をなしとげようとい う気持ちを引き起こし、それを実行する心的エネルギーのことである。しかし、「アーカイブの欲動」は、何かを行おうとするのでなく、何かを破壊しようと働 くのだ。それは、記憶を記録しつつ消去すると言う矛盾した仕事を行う不思議 な欲望である。11 デリダはフロイトがこの欲動に三種類の名前を与えている ことを指摘して、「アーカイヴの欲動」の本質について以下のように言っている。

・・・フロイトはそれ故、この欲動の還元不可能で原初的な倒錯性に抵抗で きない。彼はここで、あたかも三つの言葉がこの場合同義語であるかのよう に、時には死の欲動、時には攻撃欲動、時には破壊欲動と名付けている。ま た、三つの名前を持つこの欲動は、無言(mute/stumm)である。働いてい ながらつねに無声のまま作用するから、それ固有のアーカイヴを残すことは けっしてない。

(デリダ10、下線・下河辺)

アーカイヴとは場所――建物、紙、フィルム――である。そこでは歴史 [End Page 102] 的ドキュメントや記録が、未来に使われるために保存されている。デリダによれ ば、「アーカイヴの欲動」は歴史的記録を保管する可能性を全く残さない。二十 世紀の歴史にとっての危機は、記憶が消去されたことではなく、その記憶を収 容する容器が失われたことなのである。ここでデリダが暴いたことの中で最も 重い真実は、この欲動が、記憶のみでなく記憶の痕跡さえも消去する破壊的な 作用を「無音のうちに」行うことである。

「不意の唖」における無音を、デリダが二十世紀の「病」と説明している このユニークな欲望から考えてみたい。12 上にあげた引用の中で、デリダは この欲動が稼働するときの音声の欠如 を表現するのに二つの用語を使ってい る—消音(mute)と無音(silence)である。

この欲動が、聴取可能な音が存在しない状態で、無音のうちに稼働すると すれば、それは欲動そのものの中に声を出そうとする潜在力が隠れていること を示唆している。形容詞としてのmuteは話す能力がないだけでなく、意図的に 音声を出さない無音(silence)を意味している。誰か・何かが無音であるとき、 そこには言葉に出されたかもしれないものが内部に隠れている。デリダの引用 の中の無音の (mute) 欲動は、他の状況であれば表現されたかもしれない何ら かの意図を黙らせる (mute) ために稼働しているのである。表現されるべき/さ れるべきだった/されたかもしれない何かは、その場を支配している無音の下 にかくされているのである。

「不意の唖」の村を覆っている無音は、その下に何かが潜む意味を孕ん だ無音であって、物理的な音声欠如とは区別されるべきである。村長の無言は 前者の例、つまり意味を孕んだ無言である。少年は、父親が通訳と話していると きに無言をつらぬいているところを二、三度目撃している。通訳は盗まれた靴 の捜索を直ちに開始するようにと要求する。「俺をなめるな」 (201) という興奮 した通訳の声に対して、父は「無言のまま」 (201) であった。「軍の所有物を盗ん だ者は銃殺にされる」という通訳の脅しの言葉にたいしても、父は「何の反応も みせない」 (203) 。しかし、村長の声が欠如しているからといって、彼には言うべ きことがないというわけではない。彼はただ、内なる葛藤について何等かの言 語を発し通訳に対する醜い感情をあらわにすることをさしひかえたのである。13

人々の心の中にかくされた恨みに気付くことなく、通訳は自分の言いた いことをしゃべっている。敗戦国の国民は「進駐軍に協力することなしには生き ていくことができない」 (207) と彼は言う。通訳はあたかもアメリカ軍を代表して いるかのように村人たちを見下してしゃべり続けていたが、その間「大人たちは 黙って通訳を見つめていた」 (207) 。村人たちの複雑な感情は彼らの口を通し て、あるいは語り手の説明によって表現され得たかもしれないが、大江のテクス トはそのことについて沈黙を守っている。 [End Page 103]

意味を孕んだ無音は村長の死の場面でクライマックスに達する。村長が 射殺されたとき、通訳は外国兵たちのところから二三歩踏み出して何かを叫 ぶ。彼の逆上した声に「村の大人たち、子供たちの誰一人こたえなかった。みん な黙りこんで通訳をみつめているだけだった」 (209) 。この無音の中に、われわ れ読者は村人たちの攻撃的欲望の声を聞く。彼らは言語化されえない感情を 抑圧しているのである。

近年、研究者たちは、文学テクストに現れる様々な感情を、情動理論を用い て分析するようになった。『醜い感情』の中でシアンヌ・ンガイは、「バートルビ ー」などのアメリカ文学に描かれた発散されない否定的な感情について論じて いる。村長の殺戮を目撃したとき村人たちが心に宿したのは、この「醜い感情」であった。それは「浄化されることのない、美徳としての満足を与えることもな い、にもかかわらずひねくれていて、セラピーや浄化による解放をもたらすこと のない」 (ンガイ2005, 6) 感情である。14 もしその感情が適切な言葉と行為と に翻訳されていたら、彼らが不条理な死を目撃した村長の射殺に対する復讐へ とつながっていったであろう。しかし、そのシーンはあまりにトラウマ的であり、記憶は、「攻撃的」欲動の潜在力として彼らの心にくすぶり、彼らを暴力的殺人 へと触発したのである。

アーカイヴの病としての死の欲動が静かに稼働しはじめるのはこの無音 の中においてである。アーカイヴの欲動の三つの性質とは、デリダによれば、「死」 「攻撃性」そして「破壊性」である。そして、戦争直後の平和な村に降りかかった 予期せぬ出来事を経験した村人たちの行為の中に、これら三つが見出せるので ある。村を覆っている無声は単に音がないだけでなく、声なき声が充満し何かの 方法で発散されるのを待つ無音である。自分たちが感じていることを現す声を発 しないことで、彼らは、他者に気付かれぬまま計画を秘密にしておこうとしたので ある。15

「不意の唖」の村人の中には、話すことができないように見える者もいる 一方、話すことを決然と拒絶している者もいる。村人たちは、唖を演じることで、 デリダが「消音(mute)」と呼んだ「三つの名前を持つ欲動」を演じている。村人 たちの無言の行為は出来事の記憶だけでなく、記憶の消去の痕跡をも破壊す る。なぜなら、無音の中で作動する欲動は「それ自体のアーカイヴを決して残 さない」(デリダ10)からである。

アーカイヴの欲動の不思議な作用の中では、原因と結果の時系列的位 置が入れ替わってしまう。普通の出来事の場合、原因と結果は物事の前後とい う時系列の中に置かれている。一方、「それ(アーカイヴの欲動)はそれ自体の 痕跡を決して残さない」ため、この欲動が無音で作動するとき、先に結果を設 [End Page 104] 定してから作動が始まることになる。デリダはこの欲動が破壊的に作動すること について以下のように言っている。

この欲動は前もってそれ自体のアーカイヴを破壊する。あたかもそれこそま さに、固有の運動の動機であるかのように。それはアーカイヴを破壊するた めに、すなわち、それ「固有の」諸痕跡を抹消すると言う条件でのみならず、それらの痕跡を抹消することを目指して働くのである。・・・それはアーカイヴ を、外側に生み出すその前に食い潰す。(デリダ10,15頁、ボールド・デリダ、下線・下河辺)

原因と結果との致命的逆転は、われわれが記憶を記録しようとするときの感 覚に混乱をきたす。アーカイヴの欲動は、抹消の痕跡を消去するためにのみ機 能するからだ。そんなとき、時間の流れに、記憶と忘却が同時に行われたとき にもまして大きな混乱が生じてくる。消去することをあらかじめ設定しているア ーカイヴの欲動は、言語によって生み出すはずだった記憶を破壊するように前 もって動きだしている。これこそが死の欲動にほかならない。なぜなら、記憶を 内蔵する可能性を破壊し、それ自体の痕跡を全滅させるためだけに、その欲動 が稼働するからである。16

「不意の唖」というテクストの中では、心の内部に攻撃的欲動を秘めた村 人たちが言葉を発することなく無声の中で、二十世紀の病としてのアーカイヴ の欲動を演じている。村人たちが無音を貫くことを選んだとき、彼らは出来事の 記憶のみでなく、その消去の痕跡までをも消去することを目論むアーカイヴの 欲動を始動させたのである。村人たちの無音は、自分たちの記憶を意図的に破 壊するだけでなく、トラウマ的経験を無意識の中で忘却に引き渡すのだった。

物語の村の登場人物たちは二重の機能を果たしている。彼らは無音の中で 働くことによって、経験しつつ同時にその記憶のアーカイブを意図的に消去して いる。また、この物語の作者大江も、アーカイヴの欲動の仕事そのものを行ってい る。大江は、作者としてテクストに書きこむことができたかもしれない人々の声を 消音した (mute) 。彼は、テクストの無音によって、作品中の村のみならず、戦後日 本史のアーカイヴが破壊される様子をこの短編に落とし込んだのだ。

4.敵と遭遇しそこなうこと

「不意の唖」の中に描かれた音のない村にも、空気の振動として村人た ちの鼓膜に届いた音はある。ジープが校庭に入ってきたとき、村人たちが最初 に聞くのは日本語で怒鳴る通訳の声である。「集落の長はどこにいる?呼んで きてくれ」(195)。この物語のテクストでは、村人たちの聴覚器官に届く音声シ [End Page 105] グナルの中で一番大きな部分を占めているのが通訳の声である。とは言え、通 訳の声は二つの音声記号―日本語と外国語―として発せられている。前者は 通訳の同国人である村人たちに向けられているが、後者は進駐軍の外国兵に 向けて発せられている。彼が外国語で話している間、通訳の声は村人たちにと って何の意味もないノイズである。

通訳が日本語で話す声の声色を、大江は厳しく抑圧的な声色として表現 している。通訳は「口穢なく」(203)「(父を)怒鳴りつける勢いで」(203)、「い きりたって」(201)「大人たちの胸を揺さぶる効果をねらって」(204)、「腹を立 てた声で」(199)、「高圧的に」(199)村人たちにむかって話しかけている。通 訳は、その声色によってのみでなく、そのレトリックによっても村人たちを脅か そうとする。自分の靴がなくなっているのに気が付いた通訳が発した最初の言 葉は「軍の備品を盗んだり隠匿したりする奴がどういうことになるかわかってい るのか」(201)であった。彼はさらに言葉を強めて「軍の備品を盗んだ奴は銃 殺されても仕方がないぞ、それでいいのか?」(203)と言って家々の捜索を開 始する。村長は通訳に従うよう村人たちに言う。通訳の口から出る声は、日本語 で発せられていようとも、村人たちにとって、あたかも占領された国の人間にむ かって進駐軍が命令しているように響いたであろう。

________

村長が射殺される危機的瞬間において、その場に反響したのは三種類 の音である。日本語の音声、英語の音声、そして途方もないノイズとしてのライ フルの銃声である。各々の聴覚記号が村人たちの耳にどのように届いたかを 見てみよう。

通訳が村長の顔をひどく殴った後、村長は一言も発することなしに歩き 去ろうとする。通訳は日本語で彼をよびもどそうとする。村長が自分の命令に反 応しないのをみて、通訳は日本語でさけぶ。「とまれ、泥棒逃げるな」(208)。次に、外国兵にむけて「外国語で絶叫する」(208)。若い兵士が銃をかまえて 飛びだしてきて「同じ外国語でどなる」(208)。

事態はここから急展開する。通訳の日本語の声を無視した村長であったが、通訳が兵士に呼びかけるその外国語に反応し「急に恐慌におそわれたように」 (208)駆けだすのだ。次の瞬間、二種類の音波がその場の空気を振動させ る。通訳の叫ぶ声、そして若い兵士が発砲した銃声である。大江はその瞬間を 以下のように書いている。

通訳が叫び、若い外国兵の銃が号音をひびかせ、父親が両腕を広げて飛び 跳ねるように体をうかせ、そのまま地面へたおれた。(208-209) [End Page 106]

四つの文章が時系列的に置かれており、各々の瞬間に起こったことが実況中 継的にしるされている。日本語テクストでは四つの文章は句点(、)を使ってつ なげられており、接続詞は使われていない。17 文と文との間に何らかの関係 が設定されてはおらず、四つの情報が何らかの文脈の中に置かれているわけ ではない。

この場面を、その場に居合わせた日本語話者である村人として体験し てみよう。われわれの脳は五感-視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚―を通して 常に情報を摂取している。この致命的なシーンで、人々は聴覚情報と視覚情 報――彼らの見たことと聴いたことーーという二種類の情報を受け取ってい る。彼らは通訳が外国語で叫ぶ声を聞く。18 そしてほぼ同時に銃声を耳にす る。そのとき、彼らは見るのである。父親の身体が発砲の衝撃に反応し、地面に 崩れ落ちるのを。

かくして、村長の死というトラウマ的出来事は、音声と画像という二つの五 感情報による記憶として登録される。目撃者の感覚器官はこの圧倒的出来事 を、聴覚情報と視覚情報から同時に摂取して記録の中に登録する。音声が画像 を引き起こすのだ。村長は、空気を揺るがす恐ろしい振動によって殺された。村人たちは目撃者として、出来事をこのように体験したのである。

ここに、二種類の感覚情報の致命的な混交が生じている。外国語で発せ られた通訳の叫び声は銃声と重なっているが、村人たちは二つの音声の違い を認識することができない。それゆえ、村長が殺されたという記憶は、脅迫的 な空気の振動の効果として登録される。音の振動が彼を殺した。もし、通訳が 日本語で叫んでいれば、村人たちはそれを意味ある言語として聞き分けたであ ろう。外国語で叫ばれた言語は、外国兵たちに緊急の情報を伝えたと思われる が、村人たちの耳には、通訳の声も銃声同様、うるさく、脅迫的で、意味のないノイズにすぎなかったのだ。

このトラウマ的シーンにおいて、その場に居た人たちにとって唯一確かで あったこと、それは銃声とそれに絡まった声(音)が村長を殺したということであ る。それは誰の声なのか?通訳の声が村長を殺した!もちろんこの言葉が村人 たちによって言語化されたわけではない。なぜならこのシーンはあまりに圧倒 的で彼らはその出来事をその記憶として登録することができていないからだ。自分たちが体験した制御できない出来事に村人たちはどのように反応したの か。現実に目撃したトラウマ的出来事の視覚的情報は、通訳の声という聴覚情 報に直接つなげられ、村人たちの身体は自動的に反応したのである。

村人たちによって行われた二番目の殺人について、なぜ彼らは、実際に 村長を撃ち殺した外国兵ではなく通訳を殺したのかと問うことができるであろ う。殺人現場にいた村人たちは、少年も含めて村長の復讐をしたいという欲望 [End Page 107] を心にいだきはじめたが、実際の村長殺しの犯人である若い外国兵ではなく、通訳を処刑したのである。

聴覚情報はトラウマ的出来事をもたらしたものとして登録された。音声を とりちがえることで、村人たちは、通訳の声ではなく、実際の銃弾によって村長 が撃たれたのだということを認識しそびれる。そして、感覚情報の認識の失敗 は、もう一つの認識の失敗へつながっていく。彼らは銃をふるった若い兵士を 特定しそびれただけでなく、究極的な暴力が占領軍によって合法的にふるわれ たということに思いをいたすことができなかったのである。村人たちは、本来憎 しみをむけるべきであった現実の敵に直面しそびれたのである。

敵との遭遇の失敗は慢性的病として日本社会にくすぶり続けている。日 本がさらされてきた脅威に対しての反応のしそこないは、文化的現象の中で、フラッシュバック、記憶喪失、覚醒、そして昂進として、戦中・戦後に発症し続け てきている。DSM-Vはこうした症状を「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」として挙げている。戦後日本の歴史は、敵としてのアメリカ合衆国との出会いそこ ないにその源を発している。「不意の唖」は、第二次世界大戦の敗戦国として の日本の戦後史にとってのプライマルシーン原光景として、占領軍との致命的 な出会い/出会いそこないを描いた物語である。

結論:彼らが立ち去ったあとに灰が残されることはなかった

カルースによれば、二十世紀の歴史は「反復という概念と消去する記憶 という二つの次元の交錯の中にある」という(カルース2013、80-81)。『モー セと一神教』の中で、ユダヤ人は生き延びるためにトラウマの未来へ向けて出 立したと言われているが、カルースはそれに言及して以下のように言っている。

フロイトもまた、歴史がその目撃者を消去することによってつくられている可 能性を考え、『モーセと一神教』の中でそれを語っている。歴史は記憶を抱く 可能性そのものを焼き払い、未来を、その灰の中に残していくのである。(カ ルース2013、81 ボールド・カルース、下線・下河辺)

灰とは、「焼き尽くす」(カルース2013, 87)行為としての書くことの隠喩であり、記憶が完全に焼却された後に残される何かである。灰の中にカルースが読みこ むのは「未来におけるトラウマの可能性」(カルース2013、87)である。ここでカ ルースはデリダの「燃えカス」という隠喩を持ち出してくる。「(燃えカスとは)灰 の下に潜んで、燃え上がるのを待つ炎」である。過去が残していく物があるとす れば、その消去の痕跡としての燃えカスである。その痕跡は歴史の層の中に潜 んで燃え上がる機会を待っている。

前の章で、私は「不意の唖」における記憶の消去と目撃者の消去につい [End Page 108] て述べた。この短編には「未来のトラウマの可能性の言語」や「完璧な消去の 言語」(カルース2013、87)なるものはあるのであろうか?残念ながら、大江のテ クストは、出立によって歴史の未来へ回帰することが中心的出来事であるフロ イトのテクストとは違っている。物語の最後で、出来事の翌朝、兵士たちと村人 たちが何をしているかについて我々は以下のように知らされる。

昼前の間ずっと、外国兵はジープのまわりであるいは腰をおろしたり、ある いは歩きまわったりしていた。彼らは死ぬほどいらいらしている様子だった。それから、突然、ジープがむきをかえると、村へ入ってきた道を引き返して いった。村の人間は子供もふくめて誰一人それに注意を払うこともせず、ご く日常的な作業をしていた。(214 下線・下河辺)

トラウマの現場としての村を立ち去ったのは外国兵の方だった。もし、記憶を後 に残して村を出立したのが村人たちであったなら、トラウマ的出来事は「人が 認識できる以上の何か」(カルース2013、87)として立ち戻ってきたかもしれない。しかし、村人たちは立ち去らなかった。出来事の真の目撃者となりえた村人 たちは、外界から一切遮断されたまま、現場の内部にとどまり続けるのである。

デリダの言う「アーカイヴの病」とともに燃え上がるかもしれない灰が、こ の村に残されることはなかった。それは、村人たちが未来のトラウマへと出立し なかったからだけではない。通訳の身体を水中に沈めたときに、歴史に残され たかもしれない燃えカスを、彼ら自身で消してしまったからである。

________

「不意の唖」の中で起こったこと、それは、敗戦国として戦前から戦後 日本へと移行しようとしている日本の戦後史の相似形である。占領は新しい政 体にとって、そして負けた国の国民の心理にとって、極めて重要なトピックであ る。大江は「外国兵」と言う言い方をしており、それがどこの国の兵士であるか は言っていないが、兵士たちが合衆国占領軍であることは明らかである。村人 たちが若いアメリカ兵を殺人の主犯者として認知できなかったように、戦後日 本の歴史の中で、日本は国家として、アメリカに対して敵として対峙しそこなっ てきたのである。

戦後日本が自国史を語る可能性はほとんどないように見える。もしあるとす れば、われわれが唯一たよることのできるのは、「灰という表象」である。カルース は言う。「文学テクストの中でこそ」灰と言う表象が出現すると。それは、「単一の 指示対象を持つ出来事ではなく、想像のいたらない過去と想像のおよばない未 来の表象にわれわれをつないでくれる」 (カルース 2013, 88) 。大江は、トラウマの目撃者として「不意の唖」を書くことで記憶の消去を表現している。フロイトやデ [End Page 109] リダそしてカルース同様、大江は灰の積もった文学という場でトラウマの新しい 言語で書いた「不思議な目撃者」(カルース2013, 88)の一人なのである。

1. 日本国民はこのとき初めて天皇裕仁の肉声を聞いたが、その録音放送は大いなるセンセ ーションを巻き起こした。国民に向けてラジオで流された言葉は「玉音放送」と呼ばれた。

2. この文書では、合衆国の日本占領の目的が二つ述べられている。(1)日本が再び合衆 国および世界平和と安全への脅威とならないようにすること。(2)最終的に、日本に平和的か つ責任ある政府を樹立すること。その政府は他国の権利を尊重し、国連憲章の理念と原則にの っとった合衆国の占領目的を支持するようにすること。(Department of State Bulletin, September 23, 1945, pp.423-427)

3. 1945年9月日本が連合国の支配下に置かれることになるが、その直前の1945年8月22日、 「降伏後の日本についての合衆国の初期政策」が発布された。そこには「占領軍の基本的目 的は軍事化解除と民主化であり、その目的のためには、日本国民と文化の再構成、再教育が役 に立つであろうと述べられている」( Ochi, 2017)。

4. 大江健三郎は戦後の代表的日本人作家のひとりである。大江は1958年、23歳 で日本の最も有力な文学賞である芥川賞を受賞し、1994年にノーベル賞を受けた。

5. 現在この短編は文庫版『死者の奢り・飼育』 (新潮社1959、2016、194-214)の中に他の5編の作品とともに収められている。本稿におけるこの作品からの引用は、このテクストの頁数 を( )の中に数字で示してある。

6. "In the forest of the soul" by Maya Jaggi, The Guardian, February 5, 2005.

7. 英語版はWilliam Wetherall 訳にてオンラインで手に入る。もともとは、The Japan Quarterly 36, no. 1 (January–March 1989): 35–44に収録された。

8. 通訳殺しのシーンでの大江のレトリックは驚くべきものである。少年にいざなわれて通訳 が川にやってくると「不意に何本かの腕が橋の下の暗闇から現れ、通訳の口をふさいだ。」無音 の中で殺人を行ったのは人間としての村人たちではなく、人体の一部としての"腕"であった。

9. 「黙って」といった表現の他、それと同じ意味の表現が、村人たちが反応を見せないとい う文章に見つかる。

10. 通訳殺しのプロセスにおいて聴覚的情報は一つも書かれていないが、一方、視覚的情 報がこの犯罪の様子を伝えている。「土の橋の下の暗闇から幾本かの腕が出てきて通訳の口 を塞いだ。・・・彼はゆっくりと水中に沈んでいった。・・」「暗闇」と言った視覚的情報に加え、他 の五感によってとらえられた情報――「触る(つかむ)」「寒さ(寒さで震える)」等――も使われている。

11. カルースは体験しつつ同時に忘却するというトラウマの概念を強調しているが、デリダ のアーカイヴの概念に同じ機能を見ている。「デリダは二十世紀の歴史はアーカイヴとの関係 を通して見るとき一番よく理解できると言う。アーカイヴとは、記憶するだけでなく忘却すると言 う行為の中で歴史を記録し書き取る心理的かつ技術的手順である。」(カルース2013、75)

12. 死の欲動は原理ではない。・・・それはわれわれが後に、アーカイブの病[le mal d'archive]と名付けるものである。(デリダ12、下線・デリダ)

13. 通訳が外国兵たちに外国語で話しをしている間、村長は無言でいたが、ボディランゲー ジとしては「少し眉をひそめ」「・・・外国語が理解できず別の何かを考えることにひたっていた」 (203)などの様子をしていた。

14. ンガイの引用にある「浄化作用のない」という用語に言及して、古井義昭は以下のよう に論じている。「それ(浄化作用のないこと)は浄化あるいは解放がもたらす浄化の感覚を否定 している。そのとき、外に向けて表現されることに抗うネガティヴな感覚が主体の中にくすぶり 続けるのである。」 (Furui, 5 下線・下河辺)

15. 村人たちは彼らの無声を第三者が自ら誤読することさえ期待している。少年と通訳の会 話の中で起こったのがこのケースである。少年が現れたとき通訳は少年が無くなった靴の在り かへ自分を連れていくためにやってきたと思い違いをする。彼は少年に褒美さえ与えようとして いる。少年が何の反応もしめさないので、通訳は「お前は唖か?」と尋ねる。通訳は少年の無言 を誤解したのであり、通訳を川におびき出しそこで殺害しようとする村人たちによって、少年は あきらかに唖のふりをするようにと指示されていた。

16. デリダは、死の欲動はanarchivic(anarchy annihilation) 「無アーカイヴ的」archiviolithic(violently destructive)「アーカイヴ―元―暴力的」と呼んでいる。(1995,10)

17. 英語版では、四つの文章は"and then"と"and"でつながれている。

18. 大江はこのとき通訳がどちらの言語で叫んだかを書いていない。しかし、叫びと銃声と いう二つの音声の近接性から、通訳が英語で、兵士に向けて「村長を撃て」と叫んだことがうか とも言って がえる。通訳は村長を「盗人」と呼んでいるし「軍の備品を盗んだ奴は射殺される」いる。

Works Cited

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———. Literature in the Ashes of History. Baltimore, MD: Johns Hopkins University Press, 2013.
Derrida, Jacques. Mal d'Archive: Une impression freudienne. Galilee, 1995; English translation, Archive Fever: A Freudian Impression. Translated by Eric Prenowits. Chicago, IL: University of Chicago Press, 1995;『アーカイヴの病:フ ロイトの印象』福本修訳、法政大学出版局、2010年,2017年
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Additional Information

ISSN
2045-4740
Print ISSN
2162-3627
Pages
pp. 95-112
Launched on MUSE
2019-05-29
Open Access
No
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