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  • ポストモダン・ヒロシマ?近代日本のトラウマ、歴史、そして詩的言語
  • 西 欣也

20世紀における戦争の愚かさを象徴するものとして永遠に記憶される であろう、アウシュヴィッツと広島という二つの地名を並べてとり上げることは、 今では陳腐とも言えるものとなった。人間文明がかつて目にした最悪の出来事 として、私たちはしばしば、広島および長崎における原爆投下をアウシュヴィッ ツおよびビルケナウにおけるホロコーストとともに引き合いに出す。人間の本性 についてエリ・ヴィーゼルやプリモ・レヴィがおこなった陰鬱な分析が、原子爆 弾の投下によってもたらされた恐るべき残虐さに関する、同様に陰鬱な考察の 中で引用されてきたということもある。

しかし、批評家たちが指摘しているように、二つの残虐行為の間には違い も存在している。まず、ナチスドイツにおけるユダヤ人迫害は、強制収容所にお いて頂点に達する10年以上にわたる長期的なプロセスであったのに対して、日 本の原子爆弾は突如として広島市民に投下されたのであり、その市民たちは自 らの身に起こったことをまったく理解することができなかった。ヒットラー政権 による「最終解決」の論理は嫌悪すべきものであろうが、それでもその一貫性 のゆえに、ナチスドイツの意図は少なくとも優れた知性を持つ著述家たちに人 間の悪について考察する材料を与えた。しかし広島の場合、トリニトロトルエン 13000トンに相当する爆発力を持った爆弾が1、約35万人の住む都市の上に落と された瞬間に、1キロメートル内の距離にいた人間は100パーセント死に至っ た2。「幸運」にも最初の影響を生き延びた人々は、屍体の山と無数の罹災者にさ らされた。日本語で「ヒバクシャ」と呼ばれる、原子爆弾の被害者たちは、文字通 り々原子爆弾の被害者への心理的影響に関する先進的な研究においてR・J・リ フトンが述べたように)「死に浸される3」ことになった。実際、彼らは惨禍の原因 について、ましてや蔓延する疾患を治療する手立てについて、何ヶ月も、さらに 何年も、信頼に足る知識を持つことを妨げられたのである。これは、連合軍総司 [End Page 21] 令部(GHQ)が、反米感情を封じ込める目的で終戦直後に出版規制を設け、原 子爆弾に関する全ての情報の発信を禁止したためでもあった4

被爆者が米国の利益のために必要以上に苦しまなくてはならなかったと いう事実によって、私たちは広島とアウシュヴィッツのあいだのさらに重要な差 異に気づかされる。すなわち、原子爆弾は戦争の勝利者によって投下されたと いう点である。ナチスドイツの極悪さに関して、ひとはそれが戦争終結とともに 根絶され、ホロコーストはヨーロッパ史の逸脱的エピソードにすぎなかったと 考えることも可能となっている。これとは対照的に、広島と長崎における残虐行 為は、合理的判断の名において認可され実行された。原爆の使用は正義の側 に属するものであって、軍国主義的な大日本帝国の悪を打倒するために必要な 手段であったと多くの人が考えたし、現在でもそう考えられている。ここではしか し、そうした主張の正当性を判断することはしない。むしろ、被害と正当性のそ うした非常な複雑さは、20世紀後半の文化や思想に対する太平洋戦争のトラ ウマ的影響を理解する場合にきわめて重要であることを指摘したいのである。

広島とアウシュヴィッツの相違に基づいて、広島・長崎が新たな時代の到 来を告げ知らせるものであったと考える批評家がある。原爆文学に関するきわ めて精力的かつ浩瀚な研究の中で、ジョン・ウィティア・トリートは、広島の持つ 重要性がアウシュヴィッツのそれを越えるものであったことを示唆している。原 子爆弾の巨大な破壊力のみならず、冷戦の政治との絡みの点から見ても、ヒロ シマとナガサキとは「第二次世界大戦の道理の外に立つ」とトリートは述べる。 その際にトリートが原爆投下の意味をポストモダン性によって説明しているこ とは、注目すべきことである。

広島と長崎はある意味でグロテスクなパフォーマンスであった。ある歴史家 の言葉で言えば「劇的なフィナーレ」であった。それは東京とモスクワの観衆 のために上演されたのであって、ナチスの収容所が恐ろしくモダンであった のと同様に、その意味あいはポストモダンであった。広島と長崎は、人間の 歴史のなかで我々がまだそこに住み始めたばかりの、まだ理解することので きない、新しい局面の始まりであった。5

トリートの説明において、「人類の歴史のなかで」の「新しい局面」は、被爆 者によって感じられる理解不可能性と不条理の感覚によって特徴付けられる。 いわゆる原爆文学の作家たち、とりわけ原爆を生き延びた者たちが、かなりの 困難を抱えながら自らのトラウマ的経験を言葉にしようとしたのも頷けよう。大 田洋子(1903-63)や原民喜 (1905-51) のような文学者をめぐる研究は、それゆえ にこうした不可解さを感知しうるのでなくてはならない。ところがトリートによれ ば、被曝した作家たちの困難は、時代にそぐわない近代的な考え方、とりわけ心 理学的な手法によってしばしば誤解されてきた。心理学的視点は、文学テクスト の分析には特に適さない。診断的姿勢とも呼べるものによって、その前提が歪 められているからである。トリートが考察するところによると、R・J・リフトンの画 期的な研究においてすら、作家たちは創造的書き手としてよりは傷ついた主体 [End Page 22] としてのみ捉えられがちである。リフトンは「生存の優先順位をめぐる罪悪」あ るいは「心理的遮断」のような心理的障害の症状を同定すべく、小説や手記の 中の証言を入念に探索する6。これらの障害が、被曝した作家が自らの経験を言 語化することを妨げているというのである。

そのような近代科学的アプローチとは対照的に、トリートの考究は、被曝 作家の著述における芸術的な質に相応の注意を払おうとする。過酷な現実の 正確な記録のように見えるものも、レトリックの行使と不可避的に絡み合ってい るのであって、原民喜の「夏の花」 (1947) のような証言的作品が持つ非常な力 は、実に「事実に対するフィクションの勝利7」を示しているのだとトリートは述べ る。このような見方からすると、文学作品は具体的な形式のうちに読者に対して 高次の真理が伝達される場であることになる。それゆえ、例えば大田洋子が第 三の著書『半人間』 (1954) において新たな物語の方法を得た際に表明したの は、被爆者の心理的情緒的障害というよりは、むしろ核以後の世界そのものの 狂気であったことになる8

しかしながら、原爆文学における形式の意義を非常に強調する一方で、ト リートは、美的判断の一般原則にはきわめて懐疑的であるようだ。そして、価値 判断の普遍的な適用可能性に対するこの深い懐疑こそ、トリートのポストモダ ン的信条の主要な部分であるように見える。じじつトリートは、彼が「評価的な 批評に替えて、ポストモダン、ポストヒロシマの世界の市民として我々がなす一 層注意深い読みへと導いてくれるような批評をもたらす9」という使命を表明し た際、この点をはっきりと示している。トリートが示唆しているのは、原爆文学に 捉えられた人間経験の理解不可能な性質を前にしては、いかなる因襲的な美 的判断の基準も無力ではないかということだ。しかし、美的判断の妥当性一般 が失われてしまうならば、「人類史の新たな段階」が持つ意味を明らかにしうる とされる原や大田の強力な作品を、被爆者によって作られながらさほど芸術的 価値を持たない無数の素人の詩やフィクションから区別することに何の意味が あるだろうか。トリートの企図は、矛盾したものとも言える。一方では原爆文学に 固有の成果を単なる事実の記録から区別するため、美的な質に対して敬意を 表しておきながら、他方では犠牲者としての経験の特異性に正当な態度をとる べく、美的判断の規制の基準を疑おうとするのだから。もっとも(後知恵ではあ るが)私たちは、ポストモダニズムの議論が、この可能性を秘めた矛盾を次第に 抑圧し、美的な質の崇高なまでに特異な側面をますます形式主義的に強調し て、その面のみが理解不可能な現実感覚を伝達しうるのだとしてきたことを知 っている10。こうした単純化が芸術批評の領域において生み出した顕著な、そし て不穏な帰結の一つは、美的判断の倫理的判断への置き換えであろう。美的判 断の自律性が、苦悩や苦痛を抱える作者への共感を表明する道徳的要請にと って代わられたのである。

原爆を主題とする芸術についての批評言説は、このような苦しみの物神 化によって影響を受けたのみならず、少なくとも日本においては、この傾向を促 進するのに最も好都合なトピックの一つとなった。たとえば美術史家の若桑み [End Page 23] どりは、広島市民によって描かれた被爆地の描写が、職業芸術家による同主題 の絵画を凌ぐものであると宣言した。若桑の考えによれば、生き残った者として の苦痛が「人間的なメッセージ」となり、プロのアーティストを凌駕する力を与え たのだという。

心と目に焼きついたまま、これらのイメージは数年という時間、人間の精神 のなかで結晶化され、本質的なものだけに圧縮され、象徴的、普遍的なイメ ージにまで高まっていたのです。見たものは人間的な意味を与えられて、は るかに現実の記録を超えました。これらの残忍な主題を美しくしたものは、 数十年の間にこれらの絵を描いた人々の心に凝縮されたメッセージ、平和 へのメッセージなのです。その裏にひめられたメッセージが、イメージを美し く変えたのです。人間的なメッセージを含むことこそ、われわれが「芸術」と 呼ぶものの本質なのです。11

こうした文章において、芸術作品に対する言葉の上での反応は一種の儀礼とな る。そこでは鑑賞者が、苦しみという厳粛な事実を承認するが、同時に彼らは芸 術作品の質に対して判定を下す権利を失うのである。たしかに過去20~30年 間にわたり、第二次大戦のトラウマ的記憶への関心の高まりに応じるかたちで、 過去のトラウマ的経験を持つ無名もしくは非職業的アーティストが創作した作 品への注意がある適度促されてきた。しかしながら、ポストモダンの言論の過 剰な形式性が、芸術作品に記録された特定の表現の美的重要性を危機に曝し たように思われる。じじつ、経験の単独性を形式主義的に強調したことで、社会 的・政治的問題をより直接的に扱うようなタイプの文芸批評にも不穏な影が落 とされることになった。この領域において、一連の批評は文学経験の「表象不可 能」な次元を強調する一方、共有されたイデオロギー的な表象を拒絶してきた。 だがしばしば彼らの論議は、創作プロセスの歴史的な特異性を保持するにはあ まりにも抽象的なものとなったのである。ここで私たちは、有益な例として、荒地 派の詩における死の表象について酒井直樹がおこなった解釈を簡単に見てお きたい。

荒地派の詩人たち12の多くは戦中に兵士として実際に戦ったトラウマ的経 験を持っているが、広島や長崎で被爆した主な作者たちとは異なり、彼らは実 験的手法や前衛主義に関心を持つ熱烈なモダニストであった(T.S. エリオット の「荒地」に由来する名はここから来る13)。酒井直樹の批判的な読みによると、 荒地派の詩作法にとって決定的に重要であったのは、近代国家が死のイメージ を用いて主体を統合すべく課してきたようなファンタジーの体系を拒絶するこ とである。たとえば「私は死んでいる」という有名な言明に象徴されるように、荒 地派の詩人は、しばしば死者の立場からの発言を装う。のみならず、彼らの詩作 法が有する多くの異様な特徴の一つは、たえず言表のポジションを変化させる ことである。田村隆一の詩「一九四〇年代・夏」がその明らかな例である。 [End Page 24]

……『おれはまだ生きている死んだのはおれの経験なのだ』『おれの部屋はとざされている しかしおれの記憶の椅子とおれの幻影の窓をあなたは否定できやしない』……われわれはわれわれの死んだ経験を埋葬するわれわれはわれわれの負傷した幻影の蘇生を夢みる……わたしはこれ以上傷つくことはないでしょう なぜなら傷つくこと ただそのために わたしの存在はあったのだから14

酒井が「分裂病的」と呼ぶこうしたテクストは、人間主体の「特権的な瞬間」と しての死に訴えることなく、個人の実際の経験を抑圧するような表現システムに 抵抗する。言語に対する形式的な介入によってこのシステムを解体しようとする 荒地派の試みは、酒井の主張によれば日本史の確立されたナラティヴへの介入 と見ることも可能である。なぜなら歴史とは常に、生存者である歴史家によって 書かれたものであるほかはないのだが、その生存者こそは、死者の歴史的経験 を沈黙させ埋葬した者だからである。それゆえ詩人のなすべきことは、酒井の 言葉で言えば「死者を表象の対象としてではなく構造として、あるいはリミットと して、詩的テクストに組み込むこと」15である。

しかし、酒井自身は「特権的な瞬間」としての詩のイメージを拒むものの、 彼自身の解釈が同じ類いのイメージを再生産するという運命を逃れられるの かどうかは疑わしい。実際、酒井は荒地派の詩人たちの英雄的達成を通常の言 語使用から区別しようとして前者を称揚しているが、そこでは詩の達成は「本質 的否定性を具現するのに成功した」、つまり、表象不可能なものを表象すること に成功した文化実践とされるのである。国家による死のシンボル化に対する矯 正策を講じようとしながら、彼が結局のところそのシンボル化を、死をめぐる一 層抽象的な審美主義に置き換えることになったことは否定しがたいのではない か16

ここまで私は、ポストモダニズムによって戦後日本文学を再考しようとす る、いくつかの文学テクスト解釈を祖述してきた。すでに見たように、戦争経験 の理解不可能性(あるいは表象不可能性)の強調は形式主義的になり、私たち の眼は、文学テクストが実際に持っている歴史的実質から逸らされて、私たちは これに向き合うことができなくなっていると言える。したがって私たちが問うべ きは、固有の仕方で構成されものとしての文学作品の説得力ある読解とトラウ [End Page 25] マ的記憶とあいだの有意義な結びつきを確立することはいかにして可能なの かという問いである。一見したところ驚くべきことかもしれないが、フロイト晩年 の文化理論、とりわけ彼の最後の、最も論争的なテクストである『モーセと一神 教』が、私たちにきわめて有益な洞察を与えてくれるであろう。

フロイトが『モーセと一神教』の中で、聖書の物語にあるモーセは実は二 人の別人を一つに融合したものであると論じたことはよく知られている。二人と はすなわち、ユダヤ人を奴隷から解放したエジプト人と、カデシュで新しい宗教 を開いたミディアンの祭司のことである17。フロイト以前にも同様の主張がなさ れたことは稀でなかったが、フロイトの考察は悪意のあるものとして受け取ら れ、ある種のスキャンダルとなった。もっとも、この著作の偉大さはまさにその著 者の論争的な姿勢にこそあるのだと主張する批評家たちもあった。たとえばエ ドワード・サイードは、ユダヤのアイデンティティが、それ自体として始まったの ではなく、エジプトあるいはアラブといった他のアイデンティティに始まったとい う不快な事実を確証するフロイトの勇気を高く評価している。サイード自身の 言葉で言えば、

フロイトがあの洞察を深遠な仕方で例示しているのは大胆なことだ。つまり 彼の洞察とは、最も規定しやすく、最も同定しやすく、最も執拗な集合的アイ デンティティ(フロイトにとってそれがユダヤのアイデンティティであった)で すら、内在的なリミットを有しており、そのリミットがあるがゆえに集合的アイ デンティティは一つの、そしてただ一つのアイデンティティへと十全に具現さ れることはできないということである。18

このような観点からするならば、『モーセと一神教』の肝要な点は、文化的アイデ ンティティの論理のうちに存する欠陥を勇敢に明らかにしたことであり、集合的 アイデンティティという考え方そのものを見事に脱構築したことにある。

しかし奇妙なことに、フロイトの考究の勇敢さから正反対の結論を引き出す ことも可能である。実際、アメリカの哲学者であるリチャード・バーンスタインは、サ イードと同様にフロイトの考えに対して好意的でありながら、フロイトはユダヤの 遺産に対して誇りをもって同一化したのだと主張する。「精神性の進歩」(原語der Fortschritt der Geistligkeitは「霊性の発展」とも訳すことができる)と題された節 を緻密に読むことによって、バーンスタインは、倫理的完全性の理念をフロイトが 信頼していたことを明るみに出す。この理念こそ、発生期のユダヤ教において形成 され、その後ユダヤ人が幾世紀にもわたる迫害を生き延びる助けとなったという のである。こうした説明にあっては、フロイトを同時代の他の思想家たちから隔て るものは、彼が自らの文化的アイデンティティに制約を付すどころか、自己をユダ ヤ人として同定することに決して躊躇しなかった点だということになる。19

それゆえ『モーセと一神教』は、ユダヤ的アイデンティティの否認として書 かれたとも言えるし、ユダヤ性の優越を称揚するために書かれたとも言いうる。 [End Page 26] しかし私自身の考えは、フロイトの両義性そのものが彼の洞察の本質的な部分 であったとするものだ。というのも、一神教における二重の起源を見出したこと で、フロイトは文化的アイデンティティのジレンマから解放されたように思える からである。1930年代のヨーロッパに生きる一人のユダヤ人としてのフロイトに は、反ユダヤ主義と戦いユダヤ文化を擁護する十分な理由があった。しかしユ ダヤ性の賛美は、近代科学者としての彼の啓蒙されたセンスを寄せつけないも のであったろう。そこで、ユダヤ民族の宗教史の核心に「汚れた」二重の起源を 書き込むことによってのみ、彼は、自らの文化的アイデンティティに対する敬意 と懐疑を両立させ、内面の葛藤を受け容れることができたのである。

しかしながら、一見したところ曖昧なフロイトの姿勢が持つ含意は、この点 を超えて大きなものかもしれない。彼の見解を一般化することによって、私たち は、文化的起源の二重性は普遍的倫理の感覚を弱めるのでなく実は強めるの だと主張することもできそうだからだ。日本の平和憲法をめぐる最近の論争の 中で、フロイト理論における両義的な起源の重要性は批評家を触発し、フロイ トのテクストを参照することで偏狭な文化主義を批判したり普遍的な倫理を呼 びかけたりすることが試みられている。柄谷行人によれば、(軍隊の使用を禁じ る)日本国憲法第9条の無意識的な威力は、その両義的な起源によって説明で きる。一連の保守内閣は改憲を目論んできたが、その際の根拠は憲法が戦後の 占領期に連合軍によって押し付けられたのだとするものであった。柄谷は、「本 能の文化的抑圧」が論じられているフロイトのマゾヒズム論の一節を参照しな がら、攻撃本能の抑圧が倫理感覚を生むのであって、その逆ではないと主張す る。最初の禁止は常に「外部の力によって強制される」というフロイトの発言に 対して特別な注意を払いつつ、柄谷は、憲法9条が人民の自発的な合意によっ て作られたのでなく外的な力によって強制されたからこそ、平和主義の理念は それだけいっそう深く根付いたのだと述べる20。もちろん、それは日本人の倫理 感覚が第二次大戦の終結に至ってようやく開始したということではなく、平和憲 法の創設が日本史における「精神性の発展」のなかで最も重要な節目の一つで あったことを物語る。なるほど、もし倫理秩序の「純粋でない」起源が道徳的義 務の普遍的感覚を強化するものであるとしたら、国家が認めている以上に憲法 9条が持続的な可能性を秘めているというのが正しいと言えるかもしれない。

ここで重要となるのが、道徳の起源に関するフロイトの認識が1920年頃 を境に大きな変化を遂げたように見え、そこには人間の時間性に対して死が持 つ意味をめぐる見解の変化も伴っていたとする指摘である。第1次大戦直後に は、フロイトは、孤立した人間の欲望という観点からのみ死の概念を考察してい たように思われる。「戦争と死についての考察」(1915年頃に執筆)においては、 考察の主な焦点は「死を脇にやり、生から除去しようとする見紛いようのない傾 向」21に置かれていた。無意識が「否定的なものを知らず」、ゆえに我々に対して あたかも不死であるかのごとくに振る舞うよう命じるかぎりにおいて、死とは単 に抑圧されるべきものであった。しかし「快感原則の彼岸」(1920年刊)とともに、 フロイトは彼が死の衝動と呼ぶものへと強調点を移し、死の認識に新たな観点 [End Page 27] をもたらした。この論文には、ある人が事故の場面を目撃し、その後に「外傷性 神経症」を患うことになるという有名な事例が現れる。だが興味深いことに、フ ロイトは『モーセと一神教』の中で、まさしく個人のトラウマ的経験を古代ユダ ヤ民族の集合的記憶に結び付けようとする際に、この例を再び引き合いに出す のだ22。フロイトの説明において重要なのは、ユダヤ民族が指導者を殺害する というトラウマ的な出来事の後に、数十年を経てようやく新たな宗教を打ち立 てることができたということである。このタイムラグは、私たちにとってもきわめ て重要である。なぜならそれは、トラウマ的出来事を生き延びた者として自らを 未来に関連づける義務感と同時に「精神性の進歩」が生じた可能性を示してい るからである。キャシー・カルースが指摘するように、事故の目撃者が「一見した ところ無傷のままその場を去る」という事実が、ここでは決定的な区割りを果た している。なぜなら「去る」という事実は、「経験しなかった」こととして意義を持 つのであり、物語る主体に対して、それが出来事を後の世代に引き継ぐ責任を 負わせるからである。この道徳的義務が、それ自体理解不可能なものとして、あ たかも偶然に与えられたかのごとくに感じられることは重要である。カルースが 示唆するように、自らが神によって「選ばれた」とするユダヤの信念もまた、歴史 的連続の中でメッセージを語り継ぐという、新たに生じつつあった道徳的義務 の感覚がもたらしたものであったのではないか。

仮にフロイトにとって一神教が「覚醒」であったとしたら、それは単に過去へ の回帰ではなく、過去を生き延びたという事実への回帰である。その生存 は、ユダヤの新たな神のかたちをとり、ユダヤ人によって選ばれた行為とし てではなく、残る未来のために選ばれたのだという理解しえない事実として、 約束されてはいるが理解されていないものとして、現れる。選ばれていると いうことは、それゆえ単に過去に関する事実ではなく、完全に自らのものとな っていない未来へと放り出される経験なのである。ユダヤの一神教における トラウマの遅延した経験は、歴史が単に危機の伝達ではなく、ある生存の伝 達でもあることを示唆している。この生存は、一人の個人よりも一つの世代よ りも大きな歴史のうちでのみ、所有されるのである。23

フロイト理論に対するカルースの解釈は、私たちが単に過去との恐るべき関 係においてのみならず、時間性の十全な体系の中でトラウマ概念を理解するの に役立つ。トラウマ的経験の表象が、「未来のために選ばれた」という「理解不可 能な事実」によって条件づけられているのだとすれば、リフトンはこの「理解不可 能な」感覚を一つの症状として、つまり被災者が持つ「隠された歴史の秘密24」の 感覚として説明しようとするであろう。しかし、フロイトの議論の要諦は、ここで問 題となるのは特定個人の病理ではなく人類の進歩であるという点なのである。苦 痛について語ることは、それゆえ、そのような蓄積された歴史の感覚において解 釈されねばならない。 [End Page 28]

トラウマ、歴史そして死をめぐるフロイトの洞察を戦後日本文学の読解の ために利用する方法には様々なレベルがある。まず第一に、文化の起源をめぐ るジレンマに対するフロイトの解決(あるいは非解決)は、文化伝統に対する両 義的な緊張を保持することに成功した小説家たちや詩人たちへと注意を促す。 その傑出した例が、在日韓国・朝鮮人詩人である金時鐘(1929-)であろう。

金は、日本の植民地であった北朝鮮のウォンサンで生まれ、日本語の叙情 詩を愛する聡明な生徒として育てられた。戦争が終わると、彼は韓国・朝鮮の民 主主義のために闘う熱烈な愛国者となった。しかし、政治活動に関与したことが 原因で日本へ亡命する運命に陥り、その日本で現在まで生きてきた。皮肉なこ とに、日本の詩人小野十三郎 (1903-1996) の書物との出会いが、金を偉大な詩 人にすることになる。小野は詩人であるとともに批評家でもあり、戦中に日本古 典文学の最も強固な特質である「うた」(ないしは叙情)に対して意識的な批判 を展開した。叙情に対する小野の建設的な批判は、金に対して決定的なインパ クトを与えたが、それはこの批判によって金が、日本文学の規範という遺産に服 従することなく日本語で書き続けることを可能にしたからである。金にとって、叙 情という支配的な規範を変容させることはおそらく、文化的アイデンティティの 問題に向き合うことを意味する。それは、1945年に突然戦争が終わるとともに彼 に「国語」として差し出されたという韓国語で書くより、はるかに効果的なのであ る。彼のリアリスティックな描写の中で、古来の叙情感覚とコミカルな描写ない し形而上学的な強靭さとが共存しているのも、不思議ではない。金は、文化的ア イデンティティに対するフロイトの両義性を思わせる仕方で、規範を受け入れ ると同時に否定しているのである。

そうであるとすれば、金の詩作品における死の表象が、トラウマの主体に ついてのフロイトの説明に見られた時間構造を思わせるのも偶然ではないか もしれない。荒地派の詩人たちが孤立と脱歴史化の方向で死を超克することに 専心していたのに対し、金の詩は、現在の政治的状況にあって死について語る べきことがなお多く残されていることを読者に思い出させてくれる。死者とのト ラウマ的な出会いが特定の歴史的瞬間のうちに根ざしており、その出会いは死 が持つ特異な意味を伝達する使命を、語り手にも聴き手にも負わせる。その模 範となる例が、初期の詩集『地平線』 (1955) に収められた「齊藤金作の死に」と 題された作品である。この作品は、今日でも未解決の或る実際の事件に想を得 たものである。齊藤というサラリーマンは、帰宅中に、外国人を含む工夫が線路 上で作業をしているところを目撃した。これは、脱線事故を引き起こすことで国 鉄職員組合の信頼をくじくために仕組まれた陰謀であったとも言われる。数日 後、齊藤は軍に出頭するよう命じられるが、恐ろしくなって逃げ出し、横浜のドブ 川で屍体となって発見されたという。この作品において語り手が試みるのは、死 せる齊藤の位置から発話するのではなく齊藤に直接語りかけることであり、そ の効果は、伝達することが持つ恐るべき可能性を強調するものとなっている。 [End Page 29]

真夏のドブは ぬるかったぶくぶくに あぶいておまえの口を つめていた目と いわず鼻と いわず耳と いわずお前の生ける すべてが泥に埋まつて 死んでいた[…]齊藤よ、黙して語らぬ 金作よ、私は地の果てに おまえを呼ぼうおまえの目の 泥をのぞけば八月十六日の 星の光が出るかも 知れないおまえの口の 泥をさらえばその夜の工夫の 背の高い 人たちの名が出るかも 知れない25

モダニスト的な死の表象(およびそのポストモダン的な読解)が、歴史的コンテ クストにおける苦しみの特殊な意味を消し去りがちであるのに対して、金のリア リスト的な死者の描写は、連帯が失われてしまう痛手に対する抵抗を具現して いる26。そしてこのコントラストは、近代日本文学の歴史を背景として説明でき る。

戦後日本において、(荒地派を含む)モダニズム運動は、占領期のラディカ ルな社会主義運動に対する反動と見なすことができる。この時期、合衆国は占 領下の日本にレッドパージ政策を導入し、それに続く逆コースによって、かつて 軍国主義を支持したために公職を追放された者たちを再び迎え入れたのであ った。そのようなイデオロギー的介入に危機感を持った進歩的知識人たちは、 新たな文学組織(新日本文学会)を創設し、戦争を引き起こした社会的政治的 要因を突きとめるべく様々な討議をおこなった。しかしながら、いったん占領が 終わると、共産主義的な批評家たちの高邁な発言に嫌気がさしていた小説家 や詩人たちは、新味のあるトレンドとしてヨーロッパのモダニズムを導入した。 このトレンドが有する洗練は、ラディカルな政治からも、また敗戦直後の退廃的 文学運動からも、彼らを隔てるのに役立ったのである27。それでもなお、小説に おける大岡昇平(1909-88)や野間宏 (1915-91) あるいは詩における金時鐘のよ うに、重要な作家の中には、リアリズムのスタイルを探求し続ける者もあった。 広島における原爆詩人の中でも最も尊敬されている峠三吉(1917-53)もまたそ うしたリアリストの一人であり、彼は生々しい想像力と卓越した言語能力をも兼 [End Page 30] ね備えている。峠によって書かれた、原爆文学の中でも最も象徴的な詩作品が、 人間の連帯と未来の次元を強調していることは印象的である。

ちちをかえせ ははをかえせとしよりをかえせこどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながるにんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎりくずれぬへいわをへいわをかえせ28

この詩の標準的な英語訳は、以下のようなものである。

Give back my father, give back my mother,Give grandpa back, grandma back,Give our sons and daughters back!Give me back myself, give mankind back,Give each back to each other!

So long as this life lasts,Give peace back to us,Peace that will never end!29

リフトンは、峠の作品の読解に捧げられた章の中で、この詩の内に「過去の 復元」に向けられた詩人の欲求を見出している。しかし、ここで物語る声が単に 過去を振り返っているにすぎないという印象は、訳の不正確さによるものであ ろう。というのも、この詩が達成しているのは、それとは正反対のこと、すなわち 私たちの眼差しを未来へと向けることだからである。日本語には単数と複数の 区別も冠詞もないため、冒頭の「ちち」という単語は、my fatherをも、your fatherをも、あるいはfathers一般をも指しうる。読者が、最初の一文の段階で亡き 父への哀悼を感じ取るのはもっともであるが、しかし詩が先へ進むにつれて、少 なくとも「としより」という語(これは年老いた人々を指すかなりニュートラルな 語であり、自分自身の祖父に対する呼びかけとして用いられることはありえな い)に至る頃には、読者はこの発話の全体が、被害者の嘆きというよりは集団的 な要請であることに気づくのである。このような話者の声の精妙な、しかし有効 な拡大は、最終節に至って完全なものとなる。そこで語り手は、人類が生き残る 限り廃れることのない平和の理念を求めるのであるが、上の英訳は(そしてリフ [End Page 31] トンのコメントもまた)「にんげんのよ」という句を、単に語り手の人生でしかな い 'this life' へと矮小化することで、よりよい未来における正義に向けた呼びか けを無視している。最終節が持っているもう一つ重要な要素は、「へいわ」と「に んげん」という二語の反復である。それは、語り手が強調しているようでもあり、 熟慮しているようでもあり、ためらいよろめいているようでもある。最後の章句に ついて私自身が英訳を試みるとしたら、次のようになろう。

And give us back a peace a peacethat shall not fade awayso far as we have this society of mankind, this human society.30

金や峠のような類のリアリスト的詩学は、モダニズムの嗜好からすればあま りにも平明で散文的に見えるかもしれない。詩だけでなく散文においてもリア リスト的な表現は1950年代以降、次第に支持を失い、より実験的なモダニズム の技巧によって取って代わられたし31、やがてはこのモダニズムが、1970年以降 に移入された批評言説を活気づけていく。それにもかかわらず、このような変化 が、トラウマ的記憶を、孤立した出来事および凍結した瞬間へと制限してきたこ とは、次第に明らかになっていると思われるのだ。これとは逆に、トラウマ的経 験の歴史的実質に忠実であろうとする文学的想像力は、キャシー・カルースが フロイト理論について述べた言葉を用いるなら、「個人の精神という制約を超 え出る32」ことになる。そしてこのカルースの章句によって私たちは、本論の冒頭 で触れた論点へと連れ戻される。すなわち、私たちの記憶は今も、20世紀の戦 争の被害と正当化との非常な縺れ合いの影響を受けているという論点である。 広島・長崎をめぐる私たちの記憶は、南京と繋がり、パール・ハーバーと繋がり、 朝鮮戦争やベトナム戦争とも繋がっている。こうしたリストは人類の歴史の全体 を覆っていくかもしれない。そうであるとしたら、広島の証言の声から私たちが 気付くべきは、これらトラウマ経験の無限ともいえる縺れ合いなのであって、一 つの残虐行為を取り上げて美的経験の中で社会的矛盾を解消できるかのよう な幻想を与えることは適切とは言えまい。意義ある美的経験は、むしろ歴史的 現在において私たちがまだ矛盾を解消していないことを伝えるだろう。そして、 トラウマ的な過去の苦痛が持つ意味が十分に明かされる日を想像するよう誘 うだろう。その日こそは、社会が条件を変えて、現在私たちがその内に生きてい る歴史の縺れ合いが解消される日なのである。

芸術作品における苦しみの重要性をめぐる、アドルノの珍しく歯切れの悪 い、しかし壮麗なばかりにメシア的な考察で、本論を結びたい。

変化した社会における芸術の形式を思い描くことは不可能である。過去の 芸術や現在の芸術と比べて、それはおそらく別のものとなるだろう。しかし、 苦しみ(それが芸術の表現であり、形式は苦しみのうちに実質を持つのだ が)を芸術が完全に忘れてしまうくらいなら、いつか良き日に芸術が消失す る方が望ましい。苦しみは人間的内容であって、不自由さがそれをポジティ [End Page 32] ヴなものにすり替えている。だがもし芸術が、蓄積された苦しみの記憶を振 り落とすとしたら、歴史の記述としての芸術とはどのようなものでありうるの だろう。33

1. 長崎に投下された爆弾の方が爆発力においては強大であった(トリニトロトルエン22000 トン相当)が、爆発高度および地形の違いから、被害は広島よりも少なかった。

2. 1950年までに死亡者数は市の全人口の50%にまで及んだ。被曝を直接の原因とする死 亡者の数は、1950年までに広島で20万人、長崎で14万人とされる。

3. Robert Jay Lifton, Death in Life: Survivors in Hiroshima (New York: Basic Books, 1967), 19–30.を参照。

4. ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』も、大田洋子の著名な手記『屍の街』も、占領が終わり検 閲が解除されて初めて出版された。

5. John Whittier Treat, Writing Ground Zero: Japanese Literature and the Atomic Bomb (Chicago: University of Chicago Press, 1995), 15.

6. Lifton, Death in Life, 7, 31–56.

7. Treat, Writing Ground Zero, 151.

8. Treat, Writing Ground Zero, 223.

9. Treat, Writing Ground Zero, xiv.

10. ポストモダニズム全般に対する徹底した批判としては、テリー・イーグルトンによる以下 の著書を参照されたい。Terry Eagleton, The Illusions of Postmodernism (Oxford: Blackwell, 1996), and also his After Theory (New York: Basic Books, 2003).

11. 若桑みどり「見たものの力 戦争と芸術家」(三宅明正、若桑みどり編『九人の語る戦争 と平和』大月書店、1991年)、320頁。

12. このグループの主要な人物は、鮎川信夫(1920–86)、田村隆一(1923–96)、北村太郎 (1922–92)、黒田三郎(1919–80)、三好豊一郎(1920–92)、中桐雅夫(1919–83)そして吉 本隆明(1924–2012)らであった。

13. 以下に論じるように、荒地派の前衛主義は近代日本文学史の中でかなり保守的な機能 を果たした。この点で、テリー・イーグルトンがT・S・エリオットに下した評価は、荒地派にも十 分に当てはまる。「彼のスキャンダラスな前衛手法は、きわめて後衛的な目的のために用いられ た。それらの手法は日常的な意識を撹乱したが、これは読者のうちに、内面の深奥における共 通のアイデンティティの感覚を再活性化するためであった。」 Terry Eagleton, Literary Theory: An Introduction, 2nd ed. (Minneapolis: Minnesota University Press, 1996), 36.

14. 田村隆一「一九四〇年代・夏」『田村隆一詩集1 四千の日と夜』思潮社、1966年、71 頁以下。

15. Sakai, Translation and Subjectivity, 184.

16. 酒井の解釈が明らかにしているように、荒地派の詩人たちが「生きられた経験と語られ 記憶された経験との間に乗り越え難いギャップがある」 という鋭敏な意識を促したことは確か に適切である。 しかしそのような適切な警告が、詩的言語を唯一の貴重な例外とするコミュニ ケーション言語一般への不信へと容易に変貌してしまうのである。

17. フロイトの説明は次のように展開される。紀元前14世紀のエジプト王アメンホッテブ4 世は、人類史上初めて一神教を創始したが、彼の宗教はすぐさま廃止され、エジプト人は元の 神々へと戻っていった。アメンホッテブ4世の宗教の熱烈な信奉者であったエジプト人モーセ は、当時エジプトに居住し抑圧されていたセム系民族の指導者となって彼らを導き出し、高度 に精神化された一神教を持つ国家をつくり上げた。しかし、ヘブライ人たちはこの新たな信仰 の厳しい要求に耐えることができず、指導者を殺害して、この忌まわしい行為の記憶を抑圧し た。数十年(あるいは数百年)の後、イスラエル民族がミディアンの土地で他のセム系民族と合 流した際に、やはりモーセという名を持つ祭司が指導者となって、ヤハウェを神とする新たな国 を打ち立てた。以前の一神教が新しい宗教のなかに蘇り、ヤハウェに普遍的な精神的性質を 付与した。そして幾世紀を通じて、二人のモーセが一つの伝説的な人物像となった。Sigmund Freud, "Moses and Monotheism: Three Essays," in Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud, vol. 23, trans. James Strachey (London: Hogarth Press and Institute of Psycho-analysis, 1953–74), 59–66を参照。

18. Edward W. Said, Freud and the Non-European (London: Verso, 2003), 53–54.

19. Richard J. Bernstein, Freud and the Legacy of Moses (Cambridge: Cambridge University Press, 1998), 86.

20. Kojin Karatani, "A Japanese Utopia," in Fredric Jameson, An American Utopia: Dual Power and the Universal Army, ed. Slavoj Zizek (London: Verso, 2016), 179.

21. Sigmund Freud, "Thoughts for the Times on War and Death," in Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud, vol. 14, trans. James Strachey (London: Hogarth Press and Institute of Psycho-analysis, 1953–74), 289.

22. 『モーセと一神教』は、ある意味において、フロイトが1920年代から啓蒙的な宗教批判 を表明してきた一連の論文を引き継ぐものである。個人心理学と集団心理学との類比に基づ いて、彼は、困難を引き起こした過去のトラウマについて患者に認識させることで強迫神経症 が治せるのと同じように、宗教的信仰も、人類が最初期に経験したトラウマ的出来事を認識す ることにより 「治る」はずだと繰り返し主張した。『モーセと一神教』においても依然としてフロ イトは、仮にわれわれが「太古の遺産の記憶痕跡」の残余を明らかにするなら、「個人心理学 と集団心理学のあいだの懸隔を架橋できる、すなわち個人を扱うように民族を扱うことができ る(100頁)」 と述べている。 しかしながら、『モーセと一神教』におけるユダヤ的アイデンティテ ィとの誇り高い同一化は、病としての宗教とは明らかに相容れない。実際、ヘブライの伝統の 偉大な達成を論じる際には、フロイトは新たな集団的倫理の出現に魅了されているように見え る。 この倫理は、厳格な道徳的要請のゆえに、通常の道徳的規範を凌ぐほどのものとされるの である。宗教の意味がもつこうした両義性(幻影/進歩)は、 トラウマ的出来事のアンビバレン ス(破壊的な問題原因/普遍的倫理の起源)の感覚を反映しているように思われる。

23. Cathy Caruth, Unclaimed Experience: Trauma, Narrative, and History (Baltimore, MD: Johns Hopkins University Press, 1996), 71.

24. Lifton, Death in Life, 404.

25. 金時鐘「齊藤金作の死に」『集成詩集 原野の詩』立風書房、1991年、618–621頁。

26. 同様の例を『光州詩片』(1983年)から引くことができる。 この詩集は、韓国軍が数千名 の平和的抗議者を虐殺したとされる1980年の光州事件に対する怒りを表したものである。 この 詩集に集められた詩は、強められた調子と異様な規則性をもち、禁止の表現に満ち、 しばしば 予言や死者への語りかけを伴う。ここでも、死者と同一化することの不可能性が、正義への要 求と引き離しがたく結びついている。「誰にも見えまい。/国ごと葬った自由だから。/なきが らが見開いた光景など/誰の眼にも映りやしまい。/くる日は来るのか/くる日に行ったの か/その日がなにかを知る日があろうか。」(金時鐘「この深い空の底を」『集成詩集 原野 の詩』立風書房、1991年、67頁)

27. 荒地派が戦後民主主義の導入を歴史的な変換点と見なさず、社会変容の真の表明と して芸術的な達成をはるかに重要視したことは示唆的である。荒地派の詩人たちにとっては、 戦後の国家システムの中に過去が効果的に統合されていたのだから、新たな国家の誕生も空 虚なスローガンに響いた。 こうした理由から、かれらは「国家意識」における根本的な変化を求 め、歴史的非連続性という虚構に基づいて詩の状況設定をおこなった。「われわれはいとしい ものを殺さなければならない/これは死者を伻らせるただ一つの道であり、/われわれはそ の道を行かなければならない」(田村隆一「四千の日と夜」48頁)。

28. 峠三吉「原爆詩集 序」『峠三吉作品集(上)』青木書店、1975年、161頁。

29. Lifton, Death in Life, 441.

30. トリートが自らおこなっているこの詩の英訳は、幾つかの冠詞や代名詞を不可避的に付 け足してはいるとはいえ、はるかに正確である: "Give me back my father. Give me back my mother. / Give me back the old people. / Give me back the children. / Give me back myself. And all those people / Joined to me, give them back. / Give me back mankind. / Give me peace. / A peace that will not shatter / As long as man, man is in the world." Treat, Writing Ground Zero, 172.

31. 1960年代の末までに、芸術作品は実質的な社会的機能を失って(もしくはそれを大幅 に変更して)いた。広島の証言的記述に見られるような悲惨の直接描写は、井伏鱒二の『黒い 雨』(1965年)に見られるような洗練された物語技法よりも低い地位を与えられていた。『黒い 雨』の穏やかな静けさを激賞した保守的批評家の江藤淳は、かつて、「真のリアリズム」は単な る事実を集めるよりも現実の構造を明らかにする点に存するのだとコメントしたが、 この発言は 1950年代を通じて生じた芸術的真理の再編を如実に示している。

32. Caruth, Unclaimed Experience, 67.

33. Theodor W. Adorno, Aesthetic Theory, trans. Robert Hullot-Kentor (London: Continuum, 2004), 337–338.

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2162-3627
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pp. 21-35
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